大人の絵本の勧め

木枯らしが、寒い。昨日はユリ君と外へ行くことがあって、出かけたら風が冷たい、冷たい。冷たい強めの風に吹かれて道は彼はでいっぱいです。もう冬。けどそうですよね、11月も早いものでもう後半。12月は目の前。これもしょうがない。さて、用事ついでにスーパーへ買い物へと行ったんですが、ユリ君が珍しくコーラをボトルで買ったんです。

ユリ君はコーヒーも、お茶も飲まないし、もちろんアルコールも飲まない。飲むのは水と、友達にのみに行ったらコーラ。だからコーラを飲むことは違和感ないんですけれど、買うとなるとびっくり。今までお客さんが来るとき以外にユリ君がコーラを買ったことがないので。僕としてhあ、そんな時もあるよなって思って何も言わずにいたのです。そしたら帰り道に、「今日コーラ買ったでしょ?」って聞いてくるの「そうだね、珍しいね。」って言うと、「ほら、今週金曜日はブラックフライデーだから。いい条件の品物は真夜中にすぐになくなっちゃうからさ。そうなると夜遅くまで起きておかなきゃいけないでしょ。そのため。」

いやーーー。かわいい。夜遅くまで起きるためにカフェイン入りのコーラを買うなんて。もう、クリスマスにサンタさんの姿を見るまで寝ないぞって決め込む子供みたいじゃないですか。こういう所が好きだなって思います。

って、のろけられてもね。笑

どうですか?子供のころサンタさん信じていましたか?僕今でもサンタさんって呼んでるんですけど、良いですよねーさん付けって丁寧で。サンタクロースが来るより、サンタさんが来るのほうが絶対に親密な感じがするし。

僕は結構ながい間信じていました。多分hそう学校6年生ぐらいかな。どうなんだろう、本が好きな子って結構サンタさんを信じている時間が長いと思うのは僕だけかな?ほら、子供の頃って想像の世界と現実の世界ってあいまいじゃないですか?本の世界でできるんなら、現実の世界でもできるんじゃないかってね。だから、魔女のように箒で飛ぶ練習をしてみたり、宝を探すために地面に穴を掘ったりしたわけで。

僕の好きだった本はものすごくたくさんあるんですけど、クリスマスのお話の絵本が大好きだったんですよね。「サンタクロースと小人たち」ってタイトルの大型版の絵本で、サンタさんとそのお手伝いをする小人たちが、どうやってクリスマスまでの準備をするかが描かれているんですけど、その絵がもう見ていて飽きない。本当に素敵な絵本なので、読んだことない人はぜひ図書館で読んでくださいね。あー突然に洪水のようにこの絵本のページの挿絵が僕の頭にあふれてくる。懐かしい!!

絵本。絵本と触れ合う機会って大人になると子供を持たない限り少なくなりますよね。けど、頭のどこかに残っている記憶。ダルマと雷の子供のお話とか、全面が白黒の絵なのに傘だけが赤く色塗られた本、たしか女の子がお父さんに傘を届けに行くお話。どろんこハリー、ぐりとぐら、くまたくんシリーズ。あー。くまたくん好きだったな。飛行機に乗ったりとか新幹線に乗ったりね。ねないこだれだ は怖かった。あと、どんぐり団子のドン。これは、幼稚園のもらってくる絵本の中にあるお話で、古代人のドンがどんぐりから団子を作るお話。あれを読んだ時には、「あの道に落ちているドングリで団子が作れるんだ!!」って驚いたことを覚えています。

子供のことを思い出すためにも。大人になって絵本を読むって大事だなって思います。

ムーミン谷も11月

冬の気配が強いドイツ北西部。木枯らしが吹いてていて、外に出るのも億劫になりがち。また、日照時間が短いのも寂しいものですよね。今、読んでる本があってそれが「ムーミン谷の11月」。日本でも言わずと知れたキャラクター、ムーミンのお話ですね。作者はトーベ・ヤンソン。フィンランドの有名な作家ですよね。

なぜ、今頃にムーミン。しかも、代表作的な「楽しいムーミン一家」でもなく、「ムーミン谷の彗星」でもなく、シリーズ最終巻の「ムーミン谷の11月」なのか。うーん。訳は特にないといえば、ないんですが。

あるといえば、11月というタイトル。僕の住んでいるドイツの町は日本の緯度でいえばサハリン。それよりも北にあるフィンランドは、ロシアでいえばツンドラの永久凍土のような位置にあるわけです。ということは、11月なんて真っ暗。ちなみに今日のフィンランドの首都のヘルシンキの日の出は7時34分、日の入りは15時40分。そんな暗い時期をテーマに書いてある本は、たぶんこの暗さを生き延びる何かが書かれているのではないか、という理由。

もう一つは、この作品にはムーミン一家は出てこないということ。そう、主人公たちは休暇に出ていてこのお話には出てこないんです。斬新でしょ。ただ、もちろん出てくる人たちもいますよ。自分のことが嫌いなヘムレンさんとか、恐ろしいほどの恥ずかしがり屋で、自分にお話を寝る前に聞かせるホムサとか、長い間人に会っていなかった、その交流を断っていたような書かれ方のフィリフヨンカとか。

どうです?もう、登場人物からフィンランドの11月の暗さ。童話の明るさはありません。

だけど思うのが、ムーミンって大人に向けて書かれているのではないかなって思ってます。うーん。これが初めてなので断言しちゃいけないけれど、この本に限ってはそれが言えるのではないかな。「あー。こんなこと日常生活にあるな。」って言うのがこの少し寂しめのキャラクターに投影されているんですよね。

この本を僕は音読をして読んでいるのですが、子供に向けて書かれているので漢字も多いけど、ひらがなが多いんです。その読むのの難しさ。どこが文字の途切れなのか読みながら困ってしまうんですよね。「これを子供の時に読んでたんだな。」って思うと不思議。中にはたくさん意味が分からない言葉もあったはずだけど、多分そんなことは考えずに読み進めていたんだろうなって感じます。あと、初版が1984年なので少しだけ、今の日本語と違うなってところもあるのは面白いです。やっぱり、言葉って時間がたつごとに変わっていくのだなって。

今6章まで読んで、次の7章の始まりが、「その人は、きみのわるいくらい年よりでした。」というすごい始まり。なんとも刺激的なムーミン物語。

さて、アニメ繋がりではないのですが、ドイツも最近はクリスマス色が強くなった、コマーシャルもクリスマスを意識したものに。

今回は、良いねって思えたものをお裾分け。言葉はないのでドイツ語が分からなくても大丈夫。何かお母さんの心情に胸が熱くなります。

https://www.youtube.com/watch?v=C8a1rYWyd0s

何も手につかなくなる

ドイツ北西部が灰色の雲で覆われていて秋に気配。だからか、少し心も穏やかな気分。朝6時前の空は暗め。ちょっと数週間前にはあった太陽の光というか、そのぞんざいを感じられたのに今は全く。一日一日気が付かないうちに時は進んでいるんですね。朝早く起きるとこのことに気が付けるから好き。

昨日読み終えた小説があまりにも衝撃的で、なんとなく今も地上5cm上を漂っている感じ。最近力強い小説に出合いすぎていて、その後は見事に脱力感。どうしよう。ってほどに。前のブログでも書いたと思うのですが、柳広司さんの新世界で、原爆投下直後のたたみかけるような状況描写にかなりノックアウトされたんですよね。今回はねその時のノックアウトとはまた違った衝撃。

僕の好きな作家のひとりでもある、江国香織さんの作品。

江国さんとの出会いは本当に長い。僕が高校生のころ、修学旅行の宿を無断で抜け出して立ち寄った本屋さんで買ったのが、きらきらひかる。それ以来、そのほとんどの本を読んでいます。彼女の本の好きなところはどの主人公も少し浮世離れしているのに、本の中ではまるでそれが当たり前のように突拍子もないことも江国さんの文章だとすんなり飲み込めるところ。

昨日読み終わったのは左岸という2008年にだされたもの。ということは10年前か。

実は一回図書館で借りて読んだことがあったんですよね。日本に一時帰国をしたときに。この小説結構な長さ。長編によくある1ページが2段になっている本があるでしょ?これもそれ。それで565ページもあるんです。だから前回借りた時は途中で日本に帰らなきゃいけなくなって全部読めなかったし、あまり入り込めなかった。多分それは僕がまだミニちゃんと別れる前だったし、人生とはすべてがキラキラと輝く真夏の海のようなものだと思っていたからなのかも。

人生というものはそんなにも楽しい時間が多いわけではないし、幸せを感じていても同じ日々が続くと何も変わってはいないのに不幸に感じたりするそんな厄介なものだなって、いろいろな経験をして理解して。それがあって、この小説を読んだら、恐ろしいほどに主人公の茉莉の感情がページをめくるごとに、物語を読み進めていくごとに自分の心に入り込んできてどうしようもない、そんな感情のもてあそび。

茉莉という一人の女性が子供のころから50代までにわたる半生が書かれているんだけど、なんだろう。幸せと不幸せのウェハースを食べているような感覚。だからどんな感情を自分が味わっているのだか想像がつかない感じかな。

秋の晴れた日の午後に、突然に感じる冬の気配。肺の中まで息を吸い込むと途端に涙が出てくるあと感情に、この小説は似ています。あの時っていったい自分が何を感じて泣いているのだかわからないでしょ?涙ぐんでる自分がおかしくて笑ってるんだけど感傷的な気持ちもあって上手に笑うこともできない。そんな気分にさせてくれる素敵な小説でした。

あと数日は僕はこの気分の中で生きていきそうです。

 

吹き飛ばされる本

朝起きたら晴れ間がのぞいていたので、走りに行くことに。最近はお決まりになった10kmコース。今日はいつもと同じ時間なのにいつもの顔ぶれに全く会うことなく、しかも人自体が少ない感じ。5km過ぎ位から晴れ間も消えて、グレーの重たい雲が空を覆っていたのも、関係しているのかもしれませんね。僕が家にたどり着いてシャワーを浴びていると雨音が。今は少し青空は見えるも肌寒さを感じ何となく不安定な天気。

不安定といえば僕もちょっと不安定。

けど、その原因がわからないんですよね。何となく体調がすぐれなくて、ぼわーってなってしまうんですよね。なぜだか。頭のぼわー感と、胸の辺りのムカムカ感が取れなくて、、、。そして体調がすぐれないとまた、グダーっとした生活になっちゃうしで困ったものです。

何か現実の世界が半分夢の世界のような感覚というのかな。足が地についていない感覚が今週の始まりからあって、いったい何が原因なのかいまだにはっきりとしないんですよね。

ま、あまり深く考えずに気楽にいったほうがいいのかな?

うーーーん。やっぱり週末に読み終えたあの本なのかな?って気もしなくもないのですが。

D機関シリーズでおなじみの柳広司さん。僕も彼の本は好きで、ロンドンに留学した夏目漱石が自分をシャーロックホームズと思って謎を解く「吾輩はシャーロックホームズである」とかD機関シリーズや昭和初期の華族の男性を主人公に書かれた「ロマンス」など、僕の本棚にあるんですね。柳さんの話は何かの謎があって、最後には「なるほど。そういうことだったのか!!」というミステリーが多いんです。

それで週末に読み終えた本が、「新世界」という本。

舞台はアメリカのニューメキシコ州、ロスアラモス。ロスアラモスは原子爆弾が作られたことでも有名ですよね。そしてこの町、その開発だけのために突然に1943年に作られた町なんです。その研究所の初代所長が原爆の父といわれるオッペンハイマー氏。この小説は彼が残した小説という形で書かれています。

いつも通り店舗の良い文章で、あっという間に物語の世界に。出てくる登場人物はほとんどが実在した人間なので、なんとも興味ぶかい。確かにこのようなことがあったんだろうな、研究者たちの頭はこうだったのかもな、なんて思えるディーテールのすごさ。まるでその地にいてすべてを見てきたかのような文章。

僕の読書はそうなのですが、文字を読むとその風景や人物が映像となって表れてくるんですね。その文章に書かれていること以上に、”温度はこれくらいだな、”とか、”部屋の雰囲気はこうだな”とか。まるで映画を見ているような感覚なんですね。だからホラー小説とかは絶対読めないんです。夜眠れなくなってしますから。

それでどんどん深みにはまっていく僕。

するとある章で部隊が一気に日本に飛ぶんです。片目の女の子が見せる原爆が落ちる数秒前、そしてその後の広島の姿を。これが、もう。ちゃんと文章を読んでいたら耐えられないほどの映像なんですよね。読まないわけにも行けないので、速読式に読んでいくのですが、脳裏に移される映像が半端ない。途中で休憩をして読まなくてはいけないほど。

多分これにやられてから、どうも気分がよくないんですよね。心と頭に雨雲が、雨も流さずにとどまっている感じで、すっといる。そんな感じ。

この小説は心してかからないとやられます。テニスで長身の人が振り下ろしてくる高速サービスと一緒。ちゃんと構えとかないと吹き飛ばされてしまって、立ち直れません、、、。

しかも高速な部分は本当にその一章だけ。あとはいつも通りの淡々とした、少し低温の穏やかできっちりとした文章なんです。だからその打ちのめされ方も半端ない。

ちょっと、新たな本を読んで頭の中を一回整理する必要性がありそうです。

かなり精神的に、また肉体的に疲れますが読んでみてください。ただ、ちゃんと構えて読んでくださいね。吹き飛ばされます。

 

 

30歳を過ぎてから読む本

昨日はユリ君から仕事の休み時間になってもメッセージも来ず、”あのケーキの評判はいったいどうなのかな?”と思っていたのですが。5時半過ぎに家に帰ってきたユリ君。ケーキを入れた大きな盤ボールの箱を2つ持っています。1つ開けるとキャロットケーキが2切れ。”お。ちゃんと残してくれたんだな。”って思ってティラミスケーキの箱を開けようとすると、”そっちは空だよ。”との返答が、、、、。”どっちも一切れずつ残してほしいって言ったじゃん!”って言うと、”あ。ごめん。気が付いた時にはもうなくなってたよ。”だそう。作ったほうからすればなくなってしまったのは嬉しいのですが、あのクリームのおいしいティラミスケーキは食べたかったなっていうのが本音。

2切れのキャロットケーキを味わうとするか、っと思っていたら。”2切れあるから。ひとり1切ずつ食べようね。ティラミスケーキしか食べてないから、こっちも楽しみ。”と僕の考えをわかったかのような会話をしてきます。ユリ君の誕生日ケーキなのでしょうがないですよね。夕飯の後に2人で食べました。このキャロットケーキ、おいしんだけど僕がいつも作るレシピのほうがもっとおいしいなっていうのが正直な感想でした。ちょっと、ケーキの生地が重いかなと言うのがマイナス点かな。

けど、久しぶりのケーキ作りは楽しかったのでまた作ろうと思います。

色々な事もそうだけれど、年月を置いてふとまたそのドアを開けてみると驚くことってないですか?

僕はここに引っ越してきたのが去年の夏。ユリ君がすぐに引っ越しがあるかもしれないからと言うので引っ越しの荷物の段ボールはそのままに、あるものだけで今の生活を送っているんですよね。その中で、”生活で必要なものって意外とないんだね。”って思っていたんですが。数日前にケーキ作りのためにそのうちの箱を1つ開けたんですよね。ケーキのレシピを探すために。そしたら、ロンドンの生活で使っていた食器や、衣類が一緒に入っていて。一気に、その時の思い出が蘇ってきてそれだけで幸せな気持ちになってしまった単純な僕。

僕は結構、淡白なところがあってドイツに住んでからまだ、5か月ぐらいですがイギリスの生活を懐かしむことなんて一切ないんですよね。イギリスの生活がどのようなものだったかも遠い昔の様に感じられるし、全く違う世界の出来事の様に感じるんです。もしかしたら、これは僕の作り上げている一緒の防衛のメカニズムなのかもしれませんが。ほら、新しい生活になると何かと不便だし、イギリスはこんな感じじゃなかった、って比べたり、その場所にいる事、そんな自分を不憫に思ったりしてしまうじゃないですか。だから、そうならないように脳が昔の記憶を思いっきり遮断している感じかな。だから普段の生活で日本の生活もイギリスの生活も驚くほど思い出さないんですよね。あくまでも”今”を生きている。これって面白いなって自分のことながら思います。

けどね、こんな風に時にイギリスの生活が顔を出す時があって、”あー。こんな生活してたな。”って思えたり、自分のものが新しい生活にあるというのも素敵だなって。ほら、今の生活はユリの物の中で生活してそのとこどころに僕のものが点在している感じ。それが沢山の食器が出てくると、それが食卓に並んだりして今までの食事の景色が変わることに感動するんですよね。言葉に表すのが難しいけど、理解してもらえるかな?

年月を経て、自分が色々な経験をして思い返したり読み返したりするものに新たな発見をすることだってありますよね。

先日読み終えた江國香織さんの東京タワーと言う本。

この本が出された年は2001年12月。僕は高校の時からこの作家の本が好きで読んでいたんだけど、この本の内容はどうも自分の中にしっくりとこなかったんですよね。大学の男子生徒二人の目線で年上の女性との恋を綴った本なんですね。2001年に僕は20歳でこの2人の主人公とはほとんど同い年なのに、共感する部分が少なくて、この本は僕に合わなかったなって思って終わったんです。僕は同性が好きだから年上の女性を思いこの2人には同化できないのかなんて適当な理由を考えて本棚の奥にしまい込んでいたんです。

それから時は流れて2018年。江國香織さんの本はワインと一緒で熟成をすると言う事に気が付いて、この本をもう一度読もうと思ったんです。あれから17年の月日が流れていたんですね。すると僕の年がその男子学生の愛情の相手となった年上の2人の年齢と一致していることに気が付いたんです。

そして読み込んでいくうちに感じたことが。これは確かに10代の終わりや20代になりたての学生の目線から、心情から書かれてはいるのだけれども、ここで一番の感情を書き上げたいのはその恋愛対象のこの2人の女性だという事。

大学生の時ってまだ人生は素晴らしいものだって思っている時でしょ?10年後、20年後には家庭をもって子供もいて、週末には家族団らんで、時には友達も自分の建てたマイホームに遊びに来て、健康な両親と年に数回あって生きていくみたいな。

けど、現実には年を重ねていくにしたがって人生とは何て難しくて不平等で、理不尽なんだろうって思うことが増えて。それでも、それを気にせずに歩いていく、または目をつぶって前に進む。気が付くと周りから与えられた既成概念にとらわれてその中で自分自身を失って、自分の価値観が奪われてしまう。そんな大人の世界。

その中にあって、この女性2人は不思議な生き物として、自分の感情のままにそして、思ったままに生きている芯の強さと、野蛮さがよく書かれてるんですよね。二人の性格的には違った女性なんだけど、その根本的なものは一緒なのかなと思ってしまいました。

この本は30を過ぎてから読む本だなって、思いました。

暗く、寒い冬を生き延びる幸せな生き方

昨日は1月の第3土曜日。Blue Monday、日本語で言うと”憂鬱な月曜日”でしょうか。僕もこの言葉を知ったのが数年前かな?なんでもこの日が1年で1番、暗い気持ちにみんなが落ちやすいんだとか。

確かに、クリスマスの飾りもなくなって、新年に決めた抱負も3日坊主で終わって、正月気分も薄らいで、外を見ればいつもの薄暗い空、そして仕事始めの月曜日となればこのような気持ちに陥る人が多いのもうなずけますよね。僕の友達もフェイスブックに、”今日はブルーマンデーだからか!これで乗り切ろう!!”とおいしそうなデザートを食べて、このブルーな気持ちを乗り越えたよう。落ち込んだ時や行き詰まったときの気分転換って大事ですもんね。

そんな僕のブルーマンデーは、新しく引っ越す家のことをあまりにも考えすぎていて、気が付いたら終わったので、これはこれでよかったのかな?アパートのオーナーの人にこの建物を建てたときの設計図(去年、出来上がったばかりなので設計図を持っていたんです。)を写真で携帯に送ってもらい、そこにある数字をもとに自分で家の平面モデルを作り、持っていくであろう家具の寸法を測って、その平面モデルと同じ縮尺で紙を切って家具のアレンジをしてたという訳。だから、幸せと言えば幸せな月曜日となったのですが。設計図って見るのは楽しいけど、描くとなると大変ですね。

皆さんはどうですか?冬の季節は暗いヨーロッパ。みんな季節のうつ病にかかりやすいのですが、、、。そんな症状出てませんか? 冬を乗り切る方法で僕が今読んでる本があってそれが物凄く素敵な本なんです。

まず表紙からして、素敵ですよね。中もこのようなデザインや、心温まるよ写真と文章で構成されています。タイトルになっている、HYGGEなんですが、これデンマーク語なんですね。発音が難しくて、やわらかい感じのフグって感じ。

長い冬で知られるデンマーク、このHyggeはそんな冬をも楽しく乗り切る方法を教えてくれるんです。デンマークと言えば世界で一番幸せな国のトップ3にいつでもいる幸せ国なんですよね。その国民がなぜそんなにも幸せを感じているのかはこのHyggeが大きなパートを占めるようです。

本は色々な角度でHyggeのあり方を紹介してくれます。照明や家具の大事さだったり、身近な友人や家族で一緒に過ごす時間だったり、おいしい食べ物の食べ様だったり。Hyggeとはこうゆうもんだよって優しい文体で説明がされています。

僕もこれを読みながら、自分のしていたことはHygeeだったんだなって思うこともありました。例えばね、キャンドルをよく使う事とか、山のようにあるクッションもHyggeの1つだったし、温かな飲み物やケーキ作りなんかも。そっか、自然に今まで僕はこれをしてたんだなって。もちろん、確かにこんな風に過ごせばもっと楽しく過ごせるかもねと言う事も発見できました。特別な事が書いてあるわけではないのだけれど、読んでみると、”そうだよね。こんなシンプルな事だけど、これは幸せな気分になるよね。”っていう事が散りばめられている感じかな。

僕の生活は今、穏やかでかなりHyggeだなって自分で思っています。そして、その生活に落ち着きを感じているのも事実。ロンドンでの生活は刺激もあって、毎日が早く過ぎていたけれど、今の生活はその半分以下のスピード。だけど、その流れが僕の今には一番必要なんだなって思います。そんな僕の思いを後押ししてくれるこの一冊。

今アマゾンを調べたら、日本でもこの本の訳されたのが出版されていました。Hyggeは日本語表記にするとヒュッゲだそうです。うーん。ヒュッゲっては僕には聞こえないけど、これはしょうがない。キンドル版も出ているようですが、この本はインテリアともなるので単行本で買ったほうがおすすめです。英語版も難しい文章ではなくカジュアルな文体なので、英語の勉強にもいいかもしれませんね。

これは僕のHyggeな一枚。先週の日曜日の朝ごはんの風景なんです。

ロウソクの明かりでの朝ごはん。手作りで、できたばっかりのパンケーキにラズベリーと粉砂糖。後、ジュース。キッチンは出来立てのパンきーきの匂いで充満していて、一緒に食べるユリ君がいる。寝起きから作り始めたので、着ているものはバスローブで足元はブーツ型の起毛のスリッパ。温かな紅茶にはこの日はミルクを入れて柔らかな味に。

どうですか、Hygge生活を始めてみませんか?

ちょっとそこまで、

風が強い、ドイツ北西部。明日からはドイツ、イギリス周辺は気温もぐっと寒くなるとの事、、、。そんな今日は実は旅支度に追われています。と言ってもそんな遠くにではないんですけれどね。ロンドンにちょっとだけ戻ります。

これが何か心躍る出来事のために帰るのならいいのですが、税金の確定申告と歯医者さんのアポイントメントと、そんなに気分も上がらない用件なんです。年末の出費は痛いですよね、、。けど、これも義務。払ってきます。

もちろん、ロンドンにいる友達にも時間が空いている時に会えるのでそこは良しとしなければ。いつものメンバー、ミニ、マーロン、KちゃんA君の4人と一緒に会うのも久しぶり。1月にみんなで一緒に行くオーストリアのスキー旅行もあるので、いろいろな話題で盛り上がりそうです。

けど、不思議なことにまだドイツにきて3か月半だけど、すっかりドイツに馴染みすぎているのか、ドイツを離れるのに後ろ髪を引かれる思いが。多分これはひとえに、ユリ君の存在なんだと思うのですが。

なので今は、しなくてはいけないことをやっている途中です。床と水回りの掃除、必要な書類をまとめたり、要るものをリストアップしたり。そしてその中の1つで、しなくちゃいけないのがこれ。

これ、日本で買ってきた絵本。これを今、英語訳を付けているところなんです。というのも、ユリ君の妹に赤ちゃんが誕生して、そのお祝いのプレゼント。日本に旅行に行く前から何か特別なプレゼントが買いたいねって言っていて、”それなら、日本語の絵本は?ドイツでは手に入らないし、特別感がかなりあるよね。”とのことでこの本を購入。これを買った時は女の子が生まれるとは知らなかったのですが、ユリ君が”これがいい!!”というので決めました。

僕は自分が子供のころに読んだ、”ぐりとぐら”を勧めたのですが、中の絵が日本らしいお店屋、家や家の中が描かれていたのがどうやら決め手の様。

なので、今僕がまず日本語から英語に訳して、ユリ君が僕の英語訳をみてドイツ語でこの本に書き込むという作業をしています。僕のドイツ語がもっと上手かったら、そのままドイツ語にやくもできるんですけれどね。お粗末ながらその範囲には背伸びしても、トランポリンを使ってジャンプしても届きそうにないので、、、。

そこでユリ君と話したのが、”おつかい”いうコンセプト。”はじめてのおつかい”というテレビ番組があったように、日本ではなじみのある言葉ですよね。僕も幼稚園のころからお使いに行ってました。”砂糖を買ってきて。”って言われてグラニュー糖の粒粒の綺麗さに買って帰ったら、”これじゃないほうだよ。”と言われたりとか、探しているものが見つからず勇気を出してお店の人に聞いたこととか。ポケットに入れたはずのお金がお店に着いたらなくしてたとか。お使いってかなりのアドベンチャーですよね。

けど、たぶんイギリスとかドイツにはそんな幼稚園生が一人で買い物に行くってない気がするんですよね。ゲームをしている際中のユリ君に聞いてみたら、”うーん。ないと思う。”って返事が。ただしゲーム中なので僕の話をちゃんと理解してたかは不明なんですけれどね。どうだろ?今の子はおつかいにいくのかな?

そんなお使いのアドベンチャーが素敵な絵と、文章で描かれている絵本が、この作品です。僕も子供のころに見たことがあったんですけど、初版が1976年と僕の生まれる前で、この本はなんと140版だそう。息の長い、みんなに愛されている一冊なんですね。

ユリ君の姪っ子に僕が会えるのは再来週末かクリスマスの時かな。楽しみだなー。ちなみに名前はイザベルだそうで、僕たちは美女と野獣のベルって名前で呼ぼうって決めてます。かわいい名前ですよね。

今あるもの、今ないもの。

皆さんは素敵な週末を送っていらっしゃいますか? ドイツ北西部は昨日は朝、起きたときから晴天に恵まれユリ君と、”これは走りに行かなきゃね。”と即決。空気は少し寒いのですが、走り始めると体もあったまってくるので問題なし。ただ、途中でユリ君は調子が悪かったので歩きに変え、僕は1人で長いコースを行くことに。冷たい空気が温まった体を通り抜ける感じとか、太陽が肌にあたる感じの良さが冬場のランニングの楽しみかと。雨の多いこの時期は地面が乾いていることが少ないので、途中泥だらけの道もありタイムを短縮するというよりは走ることを楽しむという事にフォーカスをもっていった方が面白いかと考えているところです。

さて、アメリカは今週は感謝祭の週末ですね。僕もアメリカにいたときは友達の家や、友達の両親の家に呼ばれてこのホリデーを楽しみました。ハロウィンよりも、クリスマスよりもアメリカで好きなホリデーは感謝祭でしたね。パンプキンやピカンのパイ。大きな七面鳥。11月の終わりという晩秋にあるのもいいですよね。冬が本格化する最後の秋の色どりがある季節にあるこの感謝祭は僕の中で特別な意味を持ちます。

そんな感謝祭の前後に賑わうのがブラックフライデー。もともとアメリカだけだったように思いますが、最近は感謝祭に関係のないヨーロッパでもこのセールは定着しています。それどころか、ブラックフライデーの後の月曜日はサイバーマンデーというセールもあるほど。

ネットでお買い物が好きなユリ君も今週の初めごろから良いものが、欲しいものが安くならないかチェックし続けていて、今の時点でかなりの買い物をしてしまったようです。コンピューターのソフトウェアや、携帯とか、洗濯機、ミニピザがテーブルの上で作れるオーブンセットだとか。(ピザセット以外は生活に必要なものだから、いいとは思うんですけどね。)

僕は家に飾る用の素敵なアートポスターを数枚30%オフで購入したのと、ユリ君のコンピュータの椅子の半分の金額を早めの誕生日のプレゼントして献上。それだけです。

けど、ネットが普及して本当に便利な時代になりましたよね。お店に行かなくても商品を頼めるし、世界中の人と繋がることも簡単になったし。

けど、その便利性の中で僕たちは何かを失ってしまったのでしょうか?どうなんでしょうね。なくしたものの中に、”あー。何て素晴らしいものをなくしてしまったんだ。”って時間がかなり経って気づくものもありますよね。僕たちが得た利便性の裏で、何が今消えていこうとしていくのかを考えてみると面白いかもしれませんね。

前に書いたブログで最近読んでいる本のことについて少しだけ触れた事、覚えていますか?日本では小泉八雲の名前で知られるラフかディオ・ハーンが1890年代に日本に初めて訪れた時のことを綴った”新編 日本の面影”です。この本を毎日少しづつ朗読してるんですね。

映画や音楽を観たり、聞いたりして涙が出てくることってあるでしょ?何かが自分の琴線に触れて、なぜだかわからないけど涙を流してしまうことが。今までもこの本の文章は綺麗だなって思っていてだからこそ、音読をしていたのですが。昨日読んだところは、いつの間にか目に涙が溜まってしまって、読んでいる自分がびっくりしたほど。そんな感動を少しだけ皆さんにおすそ分けしようかと思います。

これは2章目の”盆踊り”というタイトルのもので出雲を目指して太平洋側から日本海側に4日間かけて人力車で中国山地を越えるときに立ち寄った村でのお話。訳をなさっている池田雅之さんの美しい訳も素直に頭の中に情景が浮かんでくる素晴らしさ。ちょっとだけ、その美しさをここに書かせてもらいます。

これはハーン氏が伯耆の国、上市のある宿に泊まった時の下りです。

”そのこぢんまりした宿は、外から見ると、風雨にさらされて古びたような感があったが、中は快適であった。(中略)この村落は、美術の中心地から遠く離れているというのに、この宿の中には、日本人の造形に対するすぐれた美的感覚を表していないものは、何ひとつとしてない。花の金蒔絵が施された時代ものの目を見張るような菓子器。飛び跳ねるエビが、一匹小さく金であしらわれた透かしの陶器の盃。巻き上がった蓮の葉の形をした、青銅製の茶托。さらに、竜と雲の模様が施された鉄瓶や、取っ手に仏陀の獅子の頭がついた真鍮の火鉢までもが、私の目を楽しませてくれ、空想をも刺激してくれるのである。(中略)これまで立ち寄った小さな田舎の村々と変わらず、この村の人たちも、私にじつに親切にしてくれた。これほどの親切や好意は想像もできないし、言葉にもできないほどである。それは、ほかの国ではまず味わえないだろうし、日本国内でも、奥地でしか味わえないものである。彼らの素朴な礼儀正しさは、けっしてわざとらしいものではない。彼らの善意は、まったく意識したものではない。そのどちらも、心から素直にあふれ出てきたものなのである。(中略)宿の老主人は、私を風呂場に案内すると、まるで私が子供だといわんばかりに、私の背中を流しましょうと言ってきかない。女将さんの方は、ご飯に卵、野菜にデザートといったご馳走を用意してくれた。そして、私が満足できたかどうかを気の毒なほどに気遣うのである。私は夕飯を二人前はゆうに平らげたというのに、女将さんは、たいしたおもてなしができなくて申し訳ありません、と何度も何度も詫びるのであった。”

日本人の昔からのおもてなしの心や、美意識がよく伝わってきますよね。また、彼が日本人ではないからこそ気が付くことも多い。そんな古き良き日本がこの本にはぎゅっと詰まっています。もしかしたら100年前も昔に僕たちがなくしてしまった何かが、文字として残っているかもしれませんね。

 

 

 

精神病がもたらす恩恵

何かが上手くいかない時ってありますよね。しっかりとやったのにこの結果ってないよね、みたいなそんな気持ちになるとき。昨日が何となくそんな気持ちを引きずる日で、そうするとすべての物事がうっとうしく思えてしまって、気分まで沈みがちに。すべての悪いことが関連しているかのように錯覚してしまって、”あー。負の連鎖だ。悪いことって一気に起こるよね。”なんて思ってしまいません?

しかも、ユリ君にまで何となくつれない態度をとってしまったり。36歳なのに大人げないですよね。甘えているといえば、聞こえはかわいいけどね。

そんな日の翌日、朝を起きたら何となくスッキリしていました。”あー。何かひとりで空回りしてたな。”って。もっと長い目で物事を見ていく力が必要だったみたいです。確かに今は問題で、気分を害しそうなことだけど、これがあと半年や1年という長いスパンで考えるとそこまで問題ではないなって。それなら、今の時点でウダウダしてたって時間の無駄なって。そしたら、霧が晴れるみたいに視界が開けました。

何か困難にぶつかるとどうしても、自分の殻に閉じこもってしまいますよね。深くも考えもせずに、”これは無理だ。そんなのは出来ない。”ってほかの人が差し伸べてくれるアドバイスを拒絶したりして。僕にはそういうところがあるので、いつも反省するんですよね。だから、今回は少しだけその殻から出る練習だな。って。人生って学ぶこと多いなー。

さて、最近読み終わった本があって、これが面白かったのでご紹介を。

ナシア・ガミー著、一流の狂気 心の病がリーダーを強くする という本。写真にある4人が誰かお分かりですか?日本でも有名な人物ばかりですよね、ガンジー、ヒトラー、J・F・ケネディーにウィンストン・チャーチル。

 

 

うつ病って、今よく耳にする精神病ですよね。世界では推定3億5000万人が患っているとみられているんです。これって日本の総人口以上だし、癌の患者さんは世界で1270万に程で、認知症の患者さんが世界で3560万人なので、その数の多さが一目瞭然ですよね。精神的な病気と聞くと、ネガティブなイメージを持つ人が多いのは事実、だけど精神病って意外と自分がなっていたり、友達や家族も気が付かないうちになっていたりするもの。それをもっと身近に知るということが今の世の中には必要ではないかと僕は思うんです。

かといっても、医学書読んで詳しくその症状や対処法をと言っても、面白くありませんよね。じゃ、世界で有名な偉人や、人物が実は精神病で苦しんでいて、その精神病があったがゆえに国民のリーダーとしての才能を発揮できていた。そう考えると、精神病というのは使いようによっては物凄いギフトにもなりえるという事を書いたのがこの本なんです。ね、面白いでしょ。

まずは、この作者の略歴を。著者のナシア・ガミーさんはイランのテヘランに生まれましたが幼いころに家族でアメリカに移住。大学では歴史学を専攻。その後、脳外科医だった父の影響もあってか、医学の道を進みます。また同時に哲学も学んでいます。なので、お医者さんとしただけの観点からでなく、様々な角度で物事を見て、書けるのも彼の本の面白かと。

ここで取り上げられている人物は、ほとんどが躁うつ病を患っていたのではないかとナシア・ガミーは考えています。その人物たちはアメリカ南北戦争で活躍したウィリアム・テクムセ・シャーマン、ケーブルテレビニュースを作り上げたテッド・ターナー、第2次世界大戦で勇猛な指揮をしたイギリスの首相、ウィンストン・チャーチル、アメリカ大統領、エイブラハム・リンカーン、非暴力・不服従でインドの独立運動を指揮したマハトマ・ガンジー、ダラスで銃弾に倒れたジョン・F・ケネディ、第2次世界大戦でナチスドイツを率いたアドルフ・ヒトラー、公民権運動の指導者として有名なキング牧師。

ね、名前を挙げただけでも、”え!!この人もそうだったの?”っていう人が出てくるでしょ?もちろん、この中には公には精神病を患っていたと言っている人は多くはないのですが、著者が精神医学の診断の証拠として取り上げられる4つの項目、症状、遺伝、疾患の経過、治療に重点を置き、様々な文献を調べて得た情報により彼らが精神病であったと裏付けしていきます。

内容を細かく話していくときりがないのですが、面白いのは、このような精神病を患ったリーダーは国が安定しているときは、どちらかというとその力がうまく発揮されずにどちらかと邪魔者扱いされることが多く、ただ、国が不安定で何かの危機に面している時にはものすごくその才能を開花させるという事。これはウィンストン・チャーチルの項を読むとわかります。本当に面白いですよね。

後は、精神病とうまく折り合いを合わせることが出来なくて、制御不能になってしまったヒトラーの話だとか、世間で非難を浴びたジョージ・ブッシュのイラク侵攻。世間では頭が悪く、精神疾患があるからあんなことが出来るんだと非難する人もいますが、実は彼は精神的には健康で、頭の良さもある。ただ、そのような精神的に健康な人は危機の間面で思ってもいない誤った判断をすることが多い、それがジョージ・W・ブッシュがいい例だと言っているんですね。面白いでしょ。

確かにこの本は少し噛み応えがあるので、時間がかかるかもしれませんが、面白さと奥深さはありますよ。

精神病を病気だと思わずに、うまく付き合っていけば有効利用できる。これってものすごく、面白い考えですよね。

30年前と今の面白さ

秋の長雨。って素敵な響きじゃないんですか?あまり気温の上がらない湖の湖畔を家の中からみて、遠くには山があってその姿も、雨の白さに少しけぶっている、そんなイメージを僕にはわき起こしてくれるんですよね。

それで、秋の長雨っていつ頃なんだろうと調べてみると停滞前線が日本列島にかかることが多い9月中旬から10月上旬の長雨の事らしいんですね。その他にも秋霖(しゅうりん)とも呼ぶそうで、秋霖のほうがもっと僕のイメージにぴったりだなって想像の世界に入ってます。

言葉が喚起するものって、いいですよね。時にはある時の記憶に、時には想像の世界に連れて行ってくれるから。日本語が僕の母国語のためか、日本の言葉にはその作用が特に強くあるように思います。

そんな雨の話をしたのは、ドイツの北西部は昨日は朝から夜まで風が強く、横殴りの雨の1日でした。昨夜の晩に目が覚めると、何か物音が。なんだろうとよく聞くと、屋根を打つ激しい雨音でした。今朝の朝もぐずついたほら模様でしたが、今は雲が多いけれども雨はやんでいる状態です。

そんな秋のドイツを旅した人の本をついこないだまで読んでいたんですね。

背景のぐちゃぐちゃと書きなぐってあるのは僕のドイツ語の勉強の成果。ドイツ語の勉強の一休みとして読んでいたんです。ドイツ語を頑張った僕へのご褒美に。

作者は宮本輝(みやもとてる)。この本をよむまで知らなかった作家ですが、ドイツに関する本を見つけている時に巡り合ったんですよね。著者の作品のひとつ、”ドナウの旅人”。物語は舞台をドイツからルーマニアとドナウ川に沿って、母と娘を中心に進んできます。その物語のリサーチをしようと宮本さんがドイツを訪れたときの旅エッセイが、この異国の窓からなんですね。

この本の単行本が出版されたのが1988年の1月。ベルリンの壁崩壊が1989年の11月なので、このころは西ドイツと東ドイツに分かれていたころなんです。旅の始まりは西ドイツ、そしてオーストリア、祖bの当時共産圏だったハンガリー、今は無きユーゴスラビアやブリガリア、そして旅のおわりルーマニアへと続いていきます。

およそ30年前に書かれたこの本。ところどころに今との違いなどを感じたりします。まず、このころの日本はバブルの中で絶好調。宮本さんも本の取材のために新聞社の人、それにあと2人の計4人での旅。散財しているとは言いませんが、何とくお金には不自由していない感じは伝わります。あと、宮本さんの言葉が今だったら、セクハラ!って言われそうな時もあって。だけど、この時はそれは当たり前だったんでしょうが。もちろん、各国の社会的な仕組みも、政治政策も今とは全く違うので、今とを対比させながら考えて読み進んでいくのも面白かったです。

実は最初読み始めは、、宮本さんの感じになじめなかったんですが、読み進めていくうちに”いいおっちゃん”だな。って思えてきました。なんとなく誤解を生みそうな言動や行動があったりするけど、根はやさしんだなって。

この旅を基にしたドナウの旅人を今度日本に帰った時には読んでみようかと思っているところです。