夜とジャズと涙

夏のイギリスは夜が静かに更けていきます。何故なのか、イギリスで真っ赤に燃える夕焼けを見る事は本当に少なくて、空の色が青から薄身をおびた青に、そして黄色とピンクのグラデーションが加わった群青色になって夜を迎えていくそんな感じ。これって緯度との関わりがあるのでしょうか。

暑い日中のこもった空気を逃す為に天窓を全部開けて夜の涼しさを含んだ風を部屋に吹き込ませると心も落ち着いてくるから不思議ですね。

深呼吸をすると心拍音までもがすこし下がってくるそんな感じ。

そのな夜似合うのがジャズの音色。穏やかに響くサックスの音色やピアノの音。哀愁、孤独感、ものうげ、そんな雰囲気があるジャズの音楽を部屋で満たすのが僕は好きです。

開いた窓からは外の雑音も入っていきて、それがまたいいコラボレーションに。

昨夜は裏庭の教会の敷地が公園になっていてそこから聞こえてくる女性の感情的な泣き声が、ジャズの音と上手く混ざってました。

外の音に耳をすますとどうやら誰かに何かの悩みを打ち明けているのか、懇願しているのか、そんな感じの女性の声のトーン。時に泣き声が強くなったり、嗚咽が出たりで。その人本人にとってはとても苦しい状態なのでしょうね。

けど、人の目もはばからずに自分の感情を存分に出す事ができ、それを聞いてくれる、肩を貸して泣く事が出来る人が隣にいるというのは、それはそれで幸せな事だなっとも思うんですよね。

子どもって泣く事の天才でしょ?僕はそう思うんですよね。悲しかろうが、悲しくなかろうが自分の思い通りにならない時には泣く事が出来る彼ら。その彼らの泣くときの情熱というのはもの凄くて。顔を思いっきりに歪ませて、息も出来ない様に苦しく、そして全身の体温を上げてまでもなくあの情熱。

それが成長をするに連れて、”泣く事は弱い事。やめなさい。”って言われて泣かない子どもになってしまう。そして、自分の感情をも何時しか自分の中に押し込んでしまって、泣く事を忘れた大人になってしまう。

僕は思うんですけど、大人になって泣けるのは武器だなって思います。辛いときや苦しい時に人前でなくてもいいから、1人部屋の中で思い切って泣いて、泣いて、泣く。不平等な社会に、不安でしょがない未来に、追いかけても追いつかない自分の理想の人生を思って泣く。

人生って年齢を重ねるごとに自分が思い描く様には行かないんだなって思い知らされませんか?自分の人生だけれども、自分だけの選択だけでは生きていけないし、自分の周りの環境に大きく左右されてしまうときもある。

そんなどうしようもない立ち位置のときに僕は泣く様にしています。

時に大泣きだったり、ときには数粒の涙だったり。そうやって心の中にある苦しみや、悲しみを少しだけ出してあげる。そうすると少しだけ体も軽くなるもんですよ。

ジャズの音と、公園の女性、それを聴いている僕。

世界というものは奇妙で、だからこそ面白いんだな。そう感じさせてくれる昨夜の出来事でした。

 

ロウソクの灯りで過ごす夜

ブログの更新が滞ってしまって、申し訳ない。

実は今、4日間の撮影の最中で家に帰ってきてその日に撮影したものをコンピューターにおとして、編集して、必要なものはmailで添付していると、夜遅くなっていてそのままベッドへ。こんな日々のため、ブログが疎かに、、、、。

今日はこの仕事の最終日。朝早めに起きてこのブログを書いている所です。

さて,2日目の撮影を終えて疲れた体で帰って来た僕。この日は特に長時間の撮影でロンドンの中心地を離れたのが午後9時。そして家についたのが午後の10時前。

共有玄関のドアを開けて、階段の電気をつけ、、、、。

”あれ????”

真っ暗なまま。一旦、自分のフラットへ行き電気をつけるも真っ暗のまま。”電気が来てない、、、。”午後の10時なのでフラットの管理事務所も開いていないし、、、まず何が起きてこの停電なのかが分らない。

まずは情報収集をと思い、ご近所さんに聞き込みに。最近、公共の工事や、色々な建物が建ったり、改築が目まぐるしい僕の街。その何処かの工事で間違って僕達の電気の配線を切ってしまっての停電なのだとか。ご近所さんが電話連絡をして今、緊急で復旧活動をしているからとの事。

考えても電気が来る訳ではないし、この状況を受け入れて過ごす事に。

ロウソクを常備していたので助かりました。ロウソクの灯りで明るくなった僕の部屋。おだやかなオレンジの灯りに少し心細い様で、懐かしさをも感じました。自分が夜にとけ込んでいる感じ。闇の中で穏やかに生きている、夜の1人の部屋でのロウソクはそんな気分にさせてくれます。

汗ばんだスーツを脱ぎ捨てて、まずは夕飯。けどここで気がついた。僕の家は全てが電気で動いている事に。どれ位に停電が続くか分らないのでまずは腐れてしまいそうな牛乳を一気に飲み干して、その次に料理をしないでも食べれるものを物色。フェタチーズを細かくして、焼いていない食パンにのっけてそこにゴマを散らして夕飯の出来上がり。青リンゴがデザートで夕飯終了。

暗闇の中で灯るロウソクの光で食べるご飯。”電気が無い時代はこれが当たり前の明るさだったんだな。”って思うと、今の生活との違いに驚かされます。これだったらお化けが出てきそうなのも分るし、家族の団欒が、そのつながりが強かったのも十分にうなずけまました。

だって、ネットもできない、テレビもラジオもつかない。あるのは暗闇とロウソクと自分だけなんですからね。

団らんする家族がいない僕はこんな時は自分との会話が主なものに。”今日は一生懸命に仕事をして、その甲斐あって素敵な写真が撮れたな。”とか、”撮影も後半戦になってくると足が疲れているな。”とか。自分と静かに向き合う時間。

けど、現代の癖って抜けないんですね。

”歯を磨こう。”ってそのままバスルームに行ったけど、灯りが無くてもちろん見えない。リビングに戻ってロウソクを持ちながら、”電気がついて当たり前だから、暗い所でもまずそこにいって電気のスイッチをつける。それが当たり前なんだなー。”って考えちゃいました。

もちろん、そこまでする事も暗闇ではないのですぐに眠る事に。

幸運な事にも朝には電気が来ていました。夜中のうちに回復した様ですね。

みなさんも、いかがですか?ロウソクで過ごす夜、お薦めですよ。きっと色々な事に気がつかされますよ。

スタンド バイ ミーの世界の様に

先週末に友達5人とハイキングへと出かける事に。

歩くのは僕は好きだし、今年中にユリアンと1日20kmを歩くハイキングへと行く事を計画しているのでその、前哨戦と思ってのこの計画。

ちゃんとリュックサックに大きめの水、カメラ、雨が降った時のためのジャケットを入れて準備完了。日差しが強かったのでサングラスも用意。本当はハイキングのブーツを買ったのですが、いまだドイツにあるので今回はいつもランニングで履いている靴で。

今回のハイキングコースは僕の街から電車に揺られて15分程の所。友達が提案したこの地区なのですが、友達に電話して見ると特に何処に行くかは決めていないという返答だったので、ネットで調べて地図とハイキングコースの目印が書かれた文章をプリントアウト。僕、こうやって事前に調べておくのが好きなんですよね。

この目印がなかなかのもので。まるで秘密の地図を解き明かす様な感じなんです。たとえばこんな感じ。”駅を出て右に。坂を降りてまた上る。スーパーがありそこの横のステップを上がる。そして橋を越える。芝生を横断して木の並木道を右に曲がる。学校を右手にみてその道を降りる。道はなだらかに右に曲がる、そこにある通り道を進む。”こんな感じで書いてあるんです。

地図はあるけれどステップが一体どんなものなのか、道がどんなものなのかは不明。それはそこに行って自分で頑張って探しなさい。そんな感じのものなんです。

最後の文章である”通り道”これがみつけてみたら草がかなり生い茂る、舗装も無い道だったんですよね。これは見逃しちゃうよねってな道で。途中で大きなカエルがいたり、清らかな流れの小川に遭遇したりと自然が一杯。

けど、時には人の家の裏側と高速の間というもの凄く不思議な道をも行かなくちゃいけないんです。この道フェンスで両側を遮られ道幅は人が2人も列んで通れない程の道。歩いていて刑務所に送られる囚人の気持ちになる、そんな道でした。

歩いて2時間半、雲行きも怪しくなってきたので今回はここで終了。まだまだ探検は当初の4分の1程。近々、再チャレンジです。

けど,緑の中に自分の身を置く事って大事ですね。小鳥の声が聞こえたり、鬱蒼と生い茂る緑の中を歩いたり、時おり吹く風に汗を乾かしてもらって、遠くで降る雨の景色を眺める。いつもの生活だと、どうしても自分自身にだけ目がいってしまって周りが見えなくなる。そんな時こそ、大きな目を得る為にハイキングに行くべきだな。そう思えた1日でした。

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