雨が降ったり、晴れたりと落ち着かない空模様のドイツ北西部。これが冬の気候だと言われれば、それを受け入れなくてはいけないですよね。けど気が付けば、あと一ヶ月ほどで冬至。という事はその一か月後にはまた、日が長くなっていくと思えばそんなに苦痛ではないのかもしれません。今まで曇りで、雨粒が降っていたのに突然に眩しい太陽が顔を出して外の通りを明るく照らしています。日が出ているうちに、ジョギングにでも出かけてこようと思います。
そんな日曜日の朝はユリ君が朝ご飯を作ってくれました。トーストにスパニッシュオムレツ。コショウが少しと、塩分をそんなに感じないシンプルな味付け。そのために、具材のタマネギの甘みをよく感じられて僕は好きだったんですよね。なので、何気なしに”今日のオムレツはシンプルでいいね。”とユリ君に伝えると。
”そんなシンプルじゃないと思う。もっと、スパイスを利かせるべきだったって事?”との返答が。
どうやら、シンプル=味がなくまずい、と言った方程式がユリ君の中にあるようだったのでそれを訂正して、”おいしかったよ。”とは伝えたのですが素直に受け取ってくれたかは、、、。
確かに色々なソースやスパイスを混ぜ合わせてコンプレックスな奥深い味というのも美味しいと思うのですが、使っている野菜や肉の味を前面に押し出したシンプルさって素敵だなって思うんですよね。特に日本に帰って色々なものを食べてその思いが強くなったように思います。
今日は日本で食べた食事の話にしようかなと。
日本食って確かに準備に手間暇かかる物も多いですよね。だしを取るために煮干しを前の晩から水に浸して置いたり、和菓子にはほとんどとも言っていいほど使われる餡を作るのだって、ものすごい工程と時間が必要で。だけど、そこの中に使われる素材はシンプルなものが多いのかと。
餡だと使うものは、小豆と和三盆糖だけだったり、煮物だと出汁、醤油、ミリン。世界で今となればどこでも通用する言葉になった寿司も、寿司米と魚、そしてワサビのみ。刺身に至っては魚だけの味を楽しむものですもんね。だから、味がシンプルというのは素敵な誉め言葉だなって僕は思うんです。
そんな、素材の味を感じられるシンプルな日本の食べ物に出会い事が今回の旅でできました。
まずは、和歌山県の熊野古道を旅した時に泊まった古民家。
兵庫で生まれ育ったある男性がオーナーで、自分で古びた民家を改良して熊野古道を旅する旅行者に安価で宿を提供しているんです。この古民家、一見丸ごと貸し切りで中には台所、木の香りが充満するお風呂に、畳の間が3部屋。もちろん昔ながらの縁側もついて、道を挟んで素敵な熊野の山深い景色の広がりを見ることできます。台所があるので自炊をしてもいいのですが、1日中山の中を歩いて近くにスーパーもないので夕飯もお願いすることに。朝食もついていますよ。オーナーが朝に近く町の喫茶店まで車で送ってくれるし、今回は無理を言っておひるごはんのお弁当も頼みました。それで、1人8000円はお得でしょ。
この料理の種類の豊富さ。ほとんどはここのオーナーの手作りで、その他のものは近所のおばちゃんたちの手作りのものだそう。旬のものを食べれるおいしさ。そして、田舎料理の温かみが1日中歩き疲れた体には心地よかったです。
この土地で育っていないオーナーが、過疎化が進むこの場所で近所の人々とつながって助け合いながらこの古民家宿泊を地域をあげて活性化をしている姿が印象的でした。
古き良き日本の姿をユリ君に見せたいと思っていたので、島根県の出雲では旅館に泊まることに。確かに、値段は結構な額でしたが夕食と朝食が入っていればそこまでは高くないのかもしれません。しかも、島根特産のおいしいものを豊富におなか一杯に楽しめたのですから。
ここで感じたのは盛り付けの美しさ。口で味を感じて、鼻で匂いを感じ、目でその料理を楽しむ。ものすごい数のお品書きだったのですが、どれが一番目立っているわけでなくてそれぞれに輝きを放って、主張をしすぎにハーモニーをなす。まるで日本人の精神構造を現したようだなって食べながら思いました。
喜界島では島料理を。この島ではヤギを食べるんですが、ヤジの刺身なんてのもあるんですよ。今回はヤギの刺身は食べずに、炒め物に。確かにラム肉に様な臭みが少しありますが、美味しい。あとは、島でとれる白身の魚の刺身や、夜光貝の焼き物などを島のレストランで食べ、クレちゃんの実家では、島ミカン、手作りのグアバアイスクリーム(庭にグアバの木があって、あまりにも実がなりすぎて食べれないほどなんだとか。)お母さんお手製の島のお吸い物と至れり尽くせり。
あとは、喜界島のおもてなし料理である鶏飯(けいはん)を食べにある食堂へ。地元の幼稚園との運動会と重なったこともあってか、僕達が行った時には鶏飯は残念ながら残り1つ。ユリ君にそれは譲って、僕は油ソーメンを。途中で、ここのお母さんが作ってくれる無農薬のニガウリのお茶うけなどもいただいて、地元の味を堪能しました。
もちろん阿蘇の実家に帰って母の手料理をおなか一杯に毎日食べれる幸福感。”何が今日は食べたいの?”って毎日のように聞かれたのですが、あまりにも食べたいものがありすぎるというよりは、何が出てきても美味しいので選ばなくてもいいかと母に任せました。
自分でご飯を作る今ですが、母の作るものは自分で作ることってないんですよね。だって、自分で作って食べて思うことはいつも一緒だから。”あー。やっぱり母の味を超えることはできないな。”って。
栄養素を取るために食事という物があるわけだけれども、人間は料理という物をした時から、栄養だけではない、人の感情や愛情もその中に込めて相手に食べさせているのだろうなとこの旅を通じて感じました。ただ、口に詰め込むものでなく、味わって食べる食事にこそ食の神髄はあるのかもしれませんね。