時代を超えて人を招く道 熊野古道

大人になってからかそうなのかもしれないですけど、期待をしているとその期待があまりにも大きくて、”思ったよりは、、、。”ってことがありませんか?

僕がこの感覚にとらわれるのは、映画が多いように思います。かなり前から。”みたいな。見たいな。観たいな。”と待ち焦がれていて、いざ見てみると、”。。。。”言葉にもならない思いが。それが問題なのが、決して悪い出来ではないという事。自分に合っていないものだったら、”つまらない。”で終わらせれるんだけど、嫌いではないんだけど思ったほどの期待値に届かなかった。この時のガッカリ感は大きくないですか?これに入る映画は僕の中ではアバターとブロークバックマウンテン。

折角に熊野古道の第2日目を今から書こうとしているのに、否定的な物言いから始めていいのだろうかとも思うのですが。

この中辺路の僕たちの最終目的地は、熊野本宮大社だったんです。八咫烏(やたがらす)ってご存知ですか?日本神話に出てくる神武天皇の道案内をした3本足のカラスですね。このカラスが熊野神社のシンボルでもあって、サッカー日本代表のユニフォームにも描かれていますよね。あまりにも残念な事ばっかり最初に書いてもつまらないので、僕たちの道中のお話に。ただ、この上の文章の事を頭に入れておいてくださいね。

さて2日目。前日に郷土料理をたべ、古民家に泊まって朝ごはんは早めの6時半。そして7時には、ハイキングスタート。この日は前の日よりも距離が長くて23kmほど。昨日の雨はやんではいますが、天気予報によれば正午過ぎから崩れる可能性が。なら、いそがねばと朝の涼しい空気の中を歩く僕たち二人。

熊野古道、道はいつでも山道と言うわけでもないんですよ。途中に舗装道路を歩くこともあります。けど、交通量も少なくて出会った車なんて2-3台でしょうか。この道は地元の何か用のある人しか使わないようで、ほとんどの車は谷の下の幹線道路を通っているようです。なので、何となく舗装道路だけどもの悲しさも感じるんですよね。

最初は視界が開けないのですが、途中でものすごく眺めがよくなります。自分がどれだけ山深くに来ているのか、そしてどれだけの標高を上がったのかが見れて気持ちがいいですよ。ね、かなりの上り坂でしょ。

 

 

ユリ君は舗装道路が最初続いていたので少しだけ不安そうに、”このままずっと最後まで舗装なの?それは嫌だな。昨日みたいな森の中を歩きたいよ。”とこぼします。確証はなかったのですが、世界遺産にもなった熊野古道。これからすっと舗装なわけはない。”大丈夫だよ。すぐにまた森の道になるから。”となだめて先を。

すると、また森の道へと行くように立札が。僕も一安心。

確かにユリ君、森の中のほうが彼の雰囲気にあってるなって思います。お酒もコーヒーさえも飲まずに主な飲み物が水と言うユリ君は何となく森の妖精的な雰囲気があるなって。妖精と同居していると思うと、何となく楽しいですね。

そんな妖精さんと山を登り、またくだり、水の脇を歩いたり、清らかな川を越えたりと昨日にも負けないような運動量を使うコース。ただ今回は下りがかなり多くて僕たちは下りがそこまで早くないので苦戦しました。

登りも急ならば下りも急です。しかもこの石畳。僕が思うにはかなり昔に作られたものではないかと思うんですよね。この石畳が前日の雨でぬれていてまるで氷のように滑るところがこの中にあって、それが怖くて、、、。かなり及び腰で下りました。

苔むした橋を渡って続く熊野古道。この中を歩いていると自分が今、いつの時代に生きているんだろうって不思議な錯覚にとらわれてしまします。大自然の中にいるって錯覚してしまいそうですが、ちゃんと枝打ちされた木々が。いろいろな人の助けでこの古道は成り立っているんですね。自然と人々の共存が日本の自然美の美しさなのかもしれません。どちらが支配をすると言いうのでなく、お互いを思いながら共存することが。

 

そんなことを考えながら、熊野本宮大社に到着。7時間かからずにたどり着くことができました。大きく威厳ある参道。それに続く神社は、、、。素敵な建物の神社なのですが、神殿の中にはサッカー日本代表チームのユニフォームが飾られ、八咫烏の乗った郵便ボックスがあり、右側にはお札やお守りを売る場所が大きく構えられている、、、。あんなに素朴で自然となじんでいた熊野古道からのギャップが物凄くて、、、。明らかに僕達は2017年に住んでいるっていう実感が、、、、。熊野古道の余韻を楽しみたかった僕たちは数分後には帰りのバスに乗り込んでいました。

バスは最初から最後までほとんど貸し切りで谷の底を流れる川の流れを見ながら、紀伊田辺へ。2時間ほどで到着。僕たちはこの2時間を2日間かけて歩いたと思うと、何か不思議な気がします。

もし何か熊野古道の質問でもありましたらいつでも聞いてくださいね。ハイキング好きにはたまらないですよ。

 

 

もののけ姫と歩く

阿蘇では初雪が降ったという事で、日本も冬が本格的に始まっているようですね。風邪などひかないように気を付けてくださいね。

ドイツ北西部も不思議な天気です。このあたりはオランダのように海面部よりも低いところもあり、雪が降るという事はあまりないそうなのですが、冬の天気の心模様はかなり身勝手。昨日もユリ君と走りに出かけたのですが、家を出たときには太陽が顔を出し、大きな虹も見えた秋の穏やかな天気。そして走って15分ほどすると突然に雨雲が空を覆って冷たい雨が降り始めました。体温が高いせいか、ユリ君の顔は冷たい前を受けて赤ら顔に。あまりにもかわいそうで途中で引き返すことに。帰り着くころにはまた晴れ間がのぞいていました。本当にあまのじゃくな冬のお天気です。

そんな日は家の中でぬくぬくとしていたが一番ですよね。夕飯を食べて、DVDを見ることに。今回のチョイスはジブリ作品のもののけ姫。僕が高校生の時に映画館で見た作品で、その迫力に見た後は言葉が出てこなかった覚えがあります。

なぜ、もののけ姫にしたかと言うと今回の日本での旅で行った和歌山県の熊野古道がこのもののけ姫の世界観に似ているなと思ったためなんです。山深い土地の神聖なる道、熊野古道。そんな旅の思い出をユリ君が思い出してくれるのではないかと思って。ドイツ語吹替の日本語字幕と言う少し不思議な感じで観賞会となりました。

ね。おっことぬしや、こだま、モロが生きていそうな森でしょ。ちなみに熊野古道はこの写真の真ん中の木の根の階段になっているところです。

熊野古道は和歌山県にあり、奄美大島から飛行機で関西国際空港に着いた僕たちはJRの特急に乗って紀伊田辺駅へ。ここで一泊して次の日の朝早いバスで熊野古道の中辺路である滝尻王子へと向かいました。今日は残念ながら雨の予報で、大粒の前でなく小雨だったので難を逃れましたが、雨のおかげで靄が立ち込めて幻想的な雰囲気を楽しめました。

熊野古道は2004年にユネスコの世界遺産に登録されて、日本でもそして特に海外でも注目を集めました。今回は平日に2日間、熊野古道歩いたのですが歩いていて触れ違ったり追い越した人で日本人だったのはたった1人。あとはみんな外国人の人々。ただ、天候が初日が雨だったこともあり歩いている人自体が少なかったのもありますが。人間が沢山いるところが嫌いな僕たちにとっては完ぺきな人口密度。

初日は近露王子を越えて、見晴らしのいい古民家のあるところまでの16kmほどの道のりです。

滝尻から始めたのですが、最初から物凄い上り坂。登っても登っても。まだ登る。息も上がるし、汗も雨の中で噴出してくるほどの急こう配。このような道を信仰の心をもってたくさんの人たちが今まで歩いてきたのだなと思うと、信仰心とはなんとも強いなと感じずにはいられません。この道が活気を持ちはじめたの、はもののけ姫の時代ともいえあれる室町時代。それから江戸時代にも伊勢参りとならぶように人気があっただとか。ある時はこの何にもない奥にお茶屋さんがあったほどだとか。

途中でお地蔵さまがあり、その横には案内の立て札が。なんでも、熊野詣りにはるばる大分よりきた男性の霊を慰めるべく建てられたのそう。この男性は熊野古道の急な道のりに疲労困憊し、空腹も加わってここで生き途絶えたとの事。

みんなが楽しくここを歩いてお参りに行ったというわけではないようですね。それぞれの思いを胸に自分の身を危険にさらしてまでも神に聞き入れてもらいたい何かがあった人々の思いがこの道を特別なものにしたのかもしれません。

この写真でわかってもらえるかわからないんですが、かなりの急こう配なんです。今はこのように整備されていますが、昔はもっと足場が悪かったのかもしれませんよね。

その後、一旦この道はある集落へとでます。そのころには雨も止んで、木々の間や谷からどんどんと靄が立ち上がって、空へと昇っていきます。そこにある小さな集落はまるで空に浮かぶ町。見晴らしのいいところが休憩所になっていて、その前には黄金色の輝く田んぼが。日本の美しさを感じさせてくれます。

熊野古道は標識が丁寧に色々なところに立ててあるので迷うという事はありません。時に地元の人が笑いながら手を振ってくれたり、野生のシカにであったりと、面白いですよ。ただ、足元が悪かったり、雨が降ったりするのでハイキングシューズとある程度の服装をしていくことをお勧めします。

ここを後にするとまた、小雨が。

宿に着いた時には、びっしょり濡れて全身も疲労を訴えるほどに。だから、宿でのお風呂がとても気持ちが良かったこと。ハイキングって素敵な景色を見たりすることも面白いんですが、家に帰って今まで履いていた靴から解放されたり、ベッドに横になって眠れるときにも幸せを感じるですよね。この感情が時に病みつきになったりして、ハイキングがやめられないのかも。

もののけ姫の気分たっぷりの熊野古道です。

食べ物のシンプルさと食の神髄に思いを馳せて

雨が降ったり、晴れたりと落ち着かない空模様のドイツ北西部。これが冬の気候だと言われれば、それを受け入れなくてはいけないですよね。けど気が付けば、あと一ヶ月ほどで冬至。という事はその一か月後にはまた、日が長くなっていくと思えばそんなに苦痛ではないのかもしれません。今まで曇りで、雨粒が降っていたのに突然に眩しい太陽が顔を出して外の通りを明るく照らしています。日が出ているうちに、ジョギングにでも出かけてこようと思います。

そんな日曜日の朝はユリ君が朝ご飯を作ってくれました。トーストにスパニッシュオムレツ。コショウが少しと、塩分をそんなに感じないシンプルな味付け。そのために、具材のタマネギの甘みをよく感じられて僕は好きだったんですよね。なので、何気なしに”今日のオムレツはシンプルでいいね。”とユリ君に伝えると。

”そんなシンプルじゃないと思う。もっと、スパイスを利かせるべきだったって事?”との返答が。

どうやら、シンプル=味がなくまずい、と言った方程式がユリ君の中にあるようだったのでそれを訂正して、”おいしかったよ。”とは伝えたのですが素直に受け取ってくれたかは、、、。

確かに色々なソースやスパイスを混ぜ合わせてコンプレックスな奥深い味というのも美味しいと思うのですが、使っている野菜や肉の味を前面に押し出したシンプルさって素敵だなって思うんですよね。特に日本に帰って色々なものを食べてその思いが強くなったように思います。

今日は日本で食べた食事の話にしようかなと。

日本食って確かに準備に手間暇かかる物も多いですよね。だしを取るために煮干しを前の晩から水に浸して置いたり、和菓子にはほとんどとも言っていいほど使われる餡を作るのだって、ものすごい工程と時間が必要で。だけど、そこの中に使われる素材はシンプルなものが多いのかと。

餡だと使うものは、小豆と和三盆糖だけだったり、煮物だと出汁、醤油、ミリン。世界で今となればどこでも通用する言葉になった寿司も、寿司米と魚、そしてワサビのみ。刺身に至っては魚だけの味を楽しむものですもんね。だから、味がシンプルというのは素敵な誉め言葉だなって僕は思うんです。

そんな、素材の味を感じられるシンプルな日本の食べ物に出会い事が今回の旅でできました。

まずは、和歌山県の熊野古道を旅した時に泊まった古民家。

兵庫で生まれ育ったある男性がオーナーで、自分で古びた民家を改良して熊野古道を旅する旅行者に安価で宿を提供しているんです。この古民家、一見丸ごと貸し切りで中には台所、木の香りが充満するお風呂に、畳の間が3部屋。もちろん昔ながらの縁側もついて、道を挟んで素敵な熊野の山深い景色の広がりを見ることできます。台所があるので自炊をしてもいいのですが、1日中山の中を歩いて近くにスーパーもないので夕飯もお願いすることに。朝食もついていますよ。オーナーが朝に近く町の喫茶店まで車で送ってくれるし、今回は無理を言っておひるごはんのお弁当も頼みました。それで、1人8000円はお得でしょ。

この料理の種類の豊富さ。ほとんどはここのオーナーの手作りで、その他のものは近所のおばちゃんたちの手作りのものだそう。旬のものを食べれるおいしさ。そして、田舎料理の温かみが1日中歩き疲れた体には心地よかったです。

この土地で育っていないオーナーが、過疎化が進むこの場所で近所の人々とつながって助け合いながらこの古民家宿泊を地域をあげて活性化をしている姿が印象的でした。

古き良き日本の姿をユリ君に見せたいと思っていたので、島根県の出雲では旅館に泊まることに。確かに、値段は結構な額でしたが夕食と朝食が入っていればそこまでは高くないのかもしれません。しかも、島根特産のおいしいものを豊富におなか一杯に楽しめたのですから。

ここで感じたのは盛り付けの美しさ。口で味を感じて、鼻で匂いを感じ、目でその料理を楽しむ。ものすごい数のお品書きだったのですが、どれが一番目立っているわけでなくてそれぞれに輝きを放って、主張をしすぎにハーモニーをなす。まるで日本人の精神構造を現したようだなって食べながら思いました。

喜界島では島料理を。この島ではヤギを食べるんですが、ヤジの刺身なんてのもあるんですよ。今回はヤギの刺身は食べずに、炒め物に。確かにラム肉に様な臭みが少しありますが、美味しい。あとは、島でとれる白身の魚の刺身や、夜光貝の焼き物などを島のレストランで食べ、クレちゃんの実家では、島ミカン、手作りのグアバアイスクリーム(庭にグアバの木があって、あまりにも実がなりすぎて食べれないほどなんだとか。)お母さんお手製の島のお吸い物と至れり尽くせり。

あとは、喜界島のおもてなし料理である鶏飯(けいはん)を食べにある食堂へ。地元の幼稚園との運動会と重なったこともあってか、僕達が行った時には鶏飯は残念ながら残り1つ。ユリ君にそれは譲って、僕は油ソーメンを。途中で、ここのお母さんが作ってくれる無農薬のニガウリのお茶うけなどもいただいて、地元の味を堪能しました。

 

もちろん阿蘇の実家に帰って母の手料理をおなか一杯に毎日食べれる幸福感。”何が今日は食べたいの?”って毎日のように聞かれたのですが、あまりにも食べたいものがありすぎるというよりは、何が出てきても美味しいので選ばなくてもいいかと母に任せました。

自分でご飯を作る今ですが、母の作るものは自分で作ることってないんですよね。だって、自分で作って食べて思うことはいつも一緒だから。”あー。やっぱり母の味を超えることはできないな。”って。

栄養素を取るために食事という物があるわけだけれども、人間は料理という物をした時から、栄養だけではない、人の感情や愛情もその中に込めて相手に食べさせているのだろうなとこの旅を通じて感じました。ただ、口に詰め込むものでなく、味わって食べる食事にこそ食の神髄はあるのかもしれませんね。

喜界島を思う 歴史、人、言葉

昨日は金曜日だったのですが、残業が最近多かったらしいユリ君はお休みに。ドイツの働くシステムって良く出来てるなって、こんなところで思います。ユリ君の会社では基本労働時間は、1日8時間の週5回。ただ、何かがあって残業をしなければいけなかったりすると8時間以上働いた時間を残業手当でもらうか、その時間をためてほかの日をお休みにできる。素敵ですよね。

ドイツやイギリスをはじめ、休暇というものがちゃんと取れるという事は本当に大事なことだなって思います。残念ながら日本はそのようなところが遅れていますよね。僕の父もかなりの有給が余っているようだし、有給があるのに冠婚葬祭や、何かの特別な時にしか使えないというのはヨーロッパに住む身からすると驚き以外の何物でもないので。この有給って、国によって会社によって日数も違うのですが今ユリ君は30日。つまり、6週間分のお休みですね、

今回の旅ではユリ君は日本で2週間、その後帰ってからの数日を時差ぼけなどを仕事に復帰するまでになくすのに取りました。

長い休暇の後って仕事に戻るのが億劫ですよね。毎週の日曜日の夜にこんな気分になりませんか?”あーまた、仕事/学校だな。”って。なので、帰って来てからユリ君に聞いてみたんですよね、休暇の後に仕事に戻るのたいへんじゃなかった ?って。するとこんな返事が、”この3週間近く、仕事のことを一切考えずに過ごせたよ。また、新たな気持ちで仕事が出来てストレスもなくて、いいよ。”だって。

確かに、毎日同じように仕事をして、同じルーティーンで1年間を30年も40年もつづけるのって精神的にも肉体的にも大変なことですもんね。けど、そこに休暇とという物があれば、年に1ヶ月半は仕事を全くしない時期がある。そうするとちょうど仕事の中休みになってまた新たな気持ちで仕事を始められる。この息抜き間って大事だなって思います。

そんなユリ君は今はもう、次のホリデーを何にするか考え中。なんでも、新車のキャンピングカーを北アメリカ大陸横断を考えているようです。次の休暇を考えて、それまで頑張って仕事をするというのもまた、ありな考え方ですよね。

さて、話を日本での休暇に戻しますね。

奄美群島の中にある喜界島でのお話をもう少し。

この島は昔は中国の影響をも受け、第二次世界大戦後は一時は日本を離れてアメリカの管轄になったこともある島なんですね。太平洋戦争の時は、鹿児島から飛んできた特攻隊の人々が燃料の補給に止まったのもここ。喜界島。そしてここからアメリカの艦隊に突撃していった土地。そんな若き特攻隊の隊員が出ていく前に、島の女性たちが最後に花束を渡していたそうで。けど、どこへも持っていく場所のない特攻兵たちはその花を喜界島に置いて旅立っていき、その真っ赤な花が戦後70年以上経っても、彼らが最後に旅立った飛行場の周りには咲き乱れているそうなのです。そして、島の人たちはその花を特攻花と呼んでいます。

そんな歴史を持つからなのでしょうか、一昔前によくテレビに出ていた霊能力者の冝保愛子さん。彼女が一度、この島を訪れたことがあったらしいんです。その時に飛行機で来たらしいのですが、タラップから降りようとしない彼女。どうやらそこに無数の霊がいて、怖くて降りたくないといったのだとか、それでそのまま島に降りることなく帰ってしまったんだよと、笑いながら話すクレちゃん。”っそんな島に住んで生活してる私たちってね。どんだけ霊感がないんだろうね。”と明るい返し。けど、これがこの島で生きる人たちの性格だなとも思います。会う人会う人、笑顔で、話が面白くて、明るい。そして、外から来る人をものすごく優しくもてなしてくれる人情。

今回はもともと、クレちゃんのおばあちゃんの家に泊まる予定だったんですよね。広い家だし、部屋もあるから大丈夫だよって事で。それでそのつもりでいたら、島に行くフェリーの中で、”おばあちゃんの家でなく、ログハウスを借りました。’とのメッセージがクレちゃんから。あとで話を聞いてみると僕とユリ君が泊るという事を聞いて、”いいよ。いいよ。”と言っていたおばあちゃん。ただ、僕たち2人の事を女の子2人組だと思っていたそうで、見ず知らずの男性2人が泊っていたら、私は恥ずかしがり屋だし、夜眠れないかもしれないと心配になったそう。それで急遽、こんな素敵なログハウスにユリ君と2人で泊まることに。

かなり大きなログハウスで、6-8人は泊まれる大きさです。バルコニーはあるし、裏にはデッキングもあって島での穏やかな生活を送るにはいい場所だと。

そんな恥ずかしがり屋なおばあちゃん。驚いたのがおばあちゃんの話す言葉。クレちゃんのお父さんとおばあちゃんの会話を聞いて、何かを理解しようとするんですが一言だって何を言っているのかわからないんですよね。本当に。だって、東北弁とかって確かに理解するのが難しいけど、これって日本語だなって思えるでしょ、喜界島の言葉は、日本語ではないイントネーションで、しかも一つも聞き取れないんです、驚いたことに。まるで小鳥がさえずるような音程を持っているんです。しかもおばあちゃんが恥ずかしがり屋さんで僕たちには直接的に話してくることは少ないので、僕の中でおばあちゃんは日本語を話さないようなイメージがあって、突然に”ありがとうね。また来てね。”と言われて、”そっか、おばあちゃん日本語喋るんだよね。”っと思ったほど。もちろんおばあちゃんは僕が何をしゃべっているかはすべてわかるわけで、、、、。

そんなおばあちゃんの一番のお気に入りはユリ君だったように思います。

近くの島料理を出してくれるレストランにクレちゃん家族全員と夕飯を食べに行ったとき、いつもは夜8時には寝るというおばあちゃん。飲んで、食べて、しゃべってとしているといつの間にかに8時半過ぎ。ユリ君とおばあちゃんは似ていて、自分のペースでご飯を食べ、そんなにしゃべるわけでもなく、宴会の雰囲気に身を任せているといった感じ。なので、お父さんが気を利かせて、”そろそろ、おばあちゃんは先に帰ろうか。”と提案したところ、”いやいや、まだいたい。”と笑顔で返答が。そして、何かあるたびにテーブルの向かい側に座るユリ君に食べ物を勧めるおばあちゃん。今年87歳という年齢に見えない若々しさと、健康を備えていた素敵な女性でした。

そしてもう一つ島の言葉について驚いたことが。この前書いたようにこの島は車で走れば40分ぐらいで1周出来てしまう所なんですよね。その島で、実は言葉が違うらしいんです。おばあちゃんの住むのはこの島の一番栄えている、湾という地区。お父さんとおばあちゃんは島言葉をしゃべっているのですが、お父さん曰く、隣の地区のおばあちゃんぐらいの人たちが喋る島言葉は何を言っているのかわからないのだとか。その地区との差は距離にすれば数キロ。けど、もう言葉が違う。面白いですよね。興味深い島だとおもいませんか?

そんな喜界島。今、観光に力を入れているですが、クレちゃんいわく観光施設がそんなにないのが問題なんだとか。確かにガジュマルの木や、島で一番高い見晴らし台の百之台、ハワイビーチ、などあるのですが、確かに地味な感じの場所が多いんですよね。だけど、それがこの島の魅力だなとも思うので、あまりリゾート施設は作ってほしくないかも。島の生活に数日間、溶け込んでいくようなスタイルこそがこの喜界島にあった観光なのかと僕的には思うのですが。

この写真は百之台からの景色。吹き上げる風を使ってカラスがうまく飛んでいるさまが美しくて見入ってしまいました。

喜界島の温かさにふれて、この島の面白さを感じ、喜界島が僕の中で第2の日本での故郷に感じました。また、次回での日本帰国の際には遊びに行かないとな。

墨と筆が織りなすもの 喜界島

朝から穏やかな光があふれていて、その光の中で朝食お食べるというのは本当に幸せだなって実感しながら今日が始まりました。日本からドイツに帰ってきて、あまりの暗さに少し面食らっていたんですよね。日照時間が短いのと、太陽が出ている時間もどんよりと曇っていて、その合間に細かな雨の雫が降り続いているそんな日々。アスファルトの道路はいつも濡れていて乾くことを忘れてしまったよう。だから、今朝の太陽の眩しさは心にしみました。

皆さん、朗読ってします?小さなお子さんを持った人なら寝る前の読み聞かせとか、していらっしゃるところも多いでしょうが声に出して文章を読むって大人になるにつれてしなくなってしまいますよね、僕は言語学習の一環で英語を声に出して読むとか、自分の好きな本だったり、興味深い新聞記事をどのくらいつっかえることなく読めるかという一人遊びが好きなので時に朗読をするんですね。そうそう。いつまでたっても子供なんです。

けどね、朗読すると今までスーッと目で読み流していたものが、声を出して読むことでもっとはっきりした輪郭をもって自分の目の前に現れてくれるので、そこは本当に魅力的だなって思います。自分の頭の中に小さな映画館が出来た感じというのかな。特に本が面白かったり情感豊かだと、その映像美にどっぷりと浸かりこめてしまえるあの幸福感。

今この記事を書いていて、そういえば小学生のころ”音読”って名目で宿題があったなって思い出しました、音読と朗読、どちらも声に出して読むことのはず。では違いは?と思って調べてみたら。音読は文章をただ読み上げることで、朗読は文章の情緒を考えてながら読むことだそう。というと、僕のしていることは朗読だな。小学生の宿題もこれからは朗読練習って名前のほうが良さそうですよね。だって、音読だとあまりにも機械的なコンピュータの音がしそうだから。

この数日、音読している本があってその本が本当に情景豊かで美しいんです。今のところは著者の旅行記みたいな感じで、彼の見ている景色を一緒に見ているような錯覚にとらわれます。その本の名は”新編日本の面影”。ギリシア生まれのラフかディオ・ハーンが初めて日本を訪れた1890年代の日本や日本の文化を書いた”知られぬ日本の面影”の中からその数編を池田雅之さんが訳したもの。今は無きそのころの日本の美しさが散りばめられた一冊です。

この本の中で彼がよく書いているのが表意文字の美しさ。表意文字って聞いてもわかりにくいと思うのですが、、、。漢字って一つの文字に意味があるでしょ?例えば”海”という漢字をみたら大きな塩の水が溜まっているものを思い浮かべますよね。だけど英語の場合はアルファベットを三つ繋げてseaで海の意味にはなるけどSとEとAの個別に見たら意味をなさないでしょ。だからアルファベットはこの部類には入らないんですよね。ハーン氏はこの表意文字が街のいたるところに、軒に下がる暖簾や従業員の法被(はっぴ)に描かれていて、どんなに安いものであろうとその文字があることでそれ以上の価値を生み出しているとも言っているほど。その描かれ方の線の太さや、筆の動きは文字を超えて絵画的であるとも。

確かに、墨を用いて筆で文字を書くってものすごく奥が深いですよね。実は、今回の日本での旅でそのことに気が付かされたんです。書とは何と未知で無限大なんだなって。まるで自分は何で生きているんだろうと自分に問うように、その答えに正しいも間違いもない、それが書なのかなと思った次第です。

そんな思いになったのは。喜界島でのこと。

クレちゃんにお世話になるという事はクレちゃんの家族にもお世話になるという事で。しかも、家族にとっては初めての海外からのお客さん。ご挨拶に行った時から、お茶にグアバの自家製アイスクリームに、島みかんにとのおもてなし。その後も夕飯に誘ってもらった時には島料理を出してくれるレストランで、ヤギを食べたり、大きな貝だったり、島の魚だったりをごちそうしてもらったんです。

そんな中、食べ物だけでなくもう一つクレちゃんのお母さんが考えていたことがあって。それが習字。実はお母さん島で唯一の日本習字の先生。毎週の土曜日に島の子供たちや大人に書のを教えて、せっかくだからユリ君と僕にも体験しないかと誘ってくれたんです。

僕は学校で習ったことはあるけど、ユリ君は全くのド素人。多分習字というものさえも知らなかったのではないでしょうか。お母さんに基本的な筆の持ち方や墨のつけ方、筆の運びを習います。お手本があってそれを横にして書くんですけれど、自分の思ったような文字にならないんですよね。書き終えたときは”良くできた。”って思うけど、よく見るとバランスが悪い。どうしてかとお母さんに問いていると、”ここの線と次につなが線がずれているからよ。”とか、”ここは右上がりにもってきて、最後のハネで長めに持ってくれば、最後に整った字になるよ。”と的確なアドバイス。確かにお手本を見ながら書いたのに、見逃していることの多い事。

けどお母さんの基本の姿勢は、”自分の好きなように、楽しく書くこと。”で、思いっきり書いてみなさいと言われる僕とユリ君。ユリ君は最初は照れて一回書いて終わりだったけれど後で、ちゃんと何枚も書いて練習をするように。最初は細かった文字が、だんだんとどっしりとなってきて文字としての美しさが出てくるんですよね、しかもユリ君にとってはそれが特に何も意味を持っていない線の並びでこの二つの文字で:花火”だよとしか言ってないのでイメージから描かれる花火という文字は僕たち日本人が書くそれとは少し違ったもので、それが興味深かったです。

最後には色紙と、掛け軸の装飾までしていただきました。色紙には一文づつ書いて、僕は”敬”の文字を、ユリ君は好きな飲み物で、自分の星座の一字である”水”を。掛け軸は僕はハイキングを終えたときに思う、“山頂涼風”。ユリ君は”花火”を仕上げました。

書をかくときのあの集中力って、ものすごいですね。僕は注意力が散漫なほうなので、自分があんなにも一つの文字を書くのに集中していることに驚きを覚えたし、その中から描き出される文字の美しさにも心惹かれました。

お母さんの文字も見せてもらったのですが、その美しさが文字というものを超えて、芸術作品のような光を持っていて、ハーン氏の驚きとその時に感じた美しさを僕も感じたようでした。

そんなお母さん、今もまだほかの書体を練習しているのだそう。教本を見せてもらったのですが、習字といえども沢山の違った書体があるんですね。それを少しづつ学んでいく、それには終わりはないのよと話していたお母さんがとれも印象的でした。

”一筆書いてもらえますか?”とお願いしたら、”じゃ、またこの島に帰ってきてくれたら、その時は書きますね。なので、また戻ってきてね。”との素敵な約束を。

筆の先をどのように動かすかによって変わってくる文字。習得に終わりがない書。書の道というのは人生の生き方と全くをもって一緒なのかもしれません。だから、長きもの間この様に人々に親しまれているのでしょうね。

パソコンで、スマホで文字を書かずに”打つ”時代の今だからこそ、この書くということを見直すべきなのかもしれません。きっと、そこには素晴らしい驚きがあるはずです。

クレオパトラの島、、、のはずが

ドイツとイギリスを行き来することが、こちらに移り住んできて多々あるんですよね。そうすると、”たいへんですね。”って言われるのですが、これは時間的なものだと、”はいそうですね。”なのですが、お金の面からだとそこまで思ったほどでもないんですよね。安い時だとロンドンーブレーメン間で往復で3500円との時もあるぐらいの安さなんです。

このことを伝えると、”そんなに安いんですか!!”と日本では大体においてこの反応が返ってきます。確かに違う国に飛ぶ、すなわち海外旅行が往復で3500円。片道何と1750円とは破格ですよね。驚かれても無理はない。ただ、飛行時間は1時間ほどで熊本から東京のほうがはるかに時間がかかるぐらいに、ヨーロッパの国々って隣国がかなり近いんです。2時間もあればロンドンからだったらほとんどのEU圏内に飛べるのではないでしょうか。それぐらい海外に行くというのはヨーロッパの人にとっては身近な事で、”ちょっとランチを食べに行こうか。”といった気楽さで出かける感じなんですよね。

最近はライアンエアー。イージージェットなどのLCC〈格安航空会社〉のおかげで飛行機の運賃もグーンと安くなっているし、ありがたい話です。僕もイギリスに日本から引っ越してきたときには、その安さにびっくりしましたもん。”航空会社ってこんな安い運賃で、生き残れるんだ!”ってね。そのころは全日空と日本航空がほとんどの日本の国内路線を占めていて、早割と言っても熊本ー東京間なんて2万円ほど。往復で4万円、、、。それがヨーロッパで住み始めてから片道1万円の航空チケットなんて、”おー。かなりの大金だね。”というレベルになってしまうから面白いですよね。

そんな日本も最近は変わりましたね。バニラエアーと言うLCCが出てきて、日本国内も海外便も破格の値段で飛んでいる。確かに路線は限られていますが、うまく使えば香港まで片道8800円なんて魅力的じゃないですか!

バニラエアーについて初めて知ったのは実はイギリスのニュースで。”世界に変わった名前の航空会社があるんだよ。特に日本!最近できたのがバニラエアーと、ピーチエアー。いったいなんでこんな名前にしたんだろうね。”と小ばかにされていたんですよね。確かにバニラとピーチをどうして航空会社の名前にしたんだろうっていうのは疑問に残りますよね。ユリ君にも、”関西空港から奄美大島まではバニラエアーっていう飛行機会社で行くからね。”っていったら笑われました。

ともあれ、堺市の観光を終えて1泊ホテルで体を休めた僕たちは昨日ドイツから降り立った関西国際空港に戻って、奄美大島へと旅立ったのでした。

なぜに奄美大島?と思われてれている方もいる事でしょう。いや奄美大島も最近は物凄く観光化されているから、ここを訪れることも珍しいことではないのかもしれませんね。ただ、奄美大島は中継地点で、僕たちの最終目的地はその奄美大島の右上に浮かぶ喜界島なんです。

ロンドンで出会った女性がここの出身者で話を聞いていくうちに、この島がどうしても気になって気になって、島に戻った彼女を頼りに訪れることにしたんですよね。

さて喜界島、そんなに大きな島ではなくて車で島尾一周40分ほどでまわれる大きさ、その中に7000人ほどの人が住んでいます。サトウキビと白ゴマの栽培が盛んで、それを使った黒糖焼酎は本当においしい事。奄美大島では有名な毒蛇のハブがこの島にはいないというのも、蛇嫌いな僕にはうれしい限り。しかもこの島、島のほとんどが隆起したサンゴでできているんです。素敵ですよね。

そんな島に着いたのは午後11時。実は奄美大島からフェリーでやって来たんです。この島に住む友達のクレちゃんが、”’飛行機とフェリーが奄美大島から出てるから好きなほうを。”と言われ値段が安いフェリーに。ただ、調べてみたらフェリーは1日に1便のみ。なので、この時間しかなかったんです。そんな遅い時間でもフェリーの乗船上には数十人の人々がお迎えに。そのフェリー乗り場がなんとも素朴で、いい味を出してるんですよね。そんな人の中にクレちゃんを発見。

タラップを降りて抱擁する僕たち3人。明らかにユリ君への視線が人々から浴びせられます。確かにね、ここに来る外国の人は少ないでしょうからね。目立っちゃいますよね。

夜も遅いのでユリ君を今日の宿へと落として、僕とクレちゃんはドライブに。よるの喜界島は本当に真っ暗闇で、時折に道路でもなさそうな道をひた走るクレちゃんの車。そして真っ暗闇の中を見上げるとそこには無数の大小の大きさをもって光る星が。星ってこんなにもあるんだって驚くほどのその数。少しの間その眺めを見ていたら、生ぬるい風に冷たさを感じて西の空が時折ピカッと光始めました。嵐が来るようです。宿に送ってもらって、シャワーを浴びてベッドに入るとかなりの音を立てて雨が降って、その雨音を聞きながら眠りに落ちました。

そうそう。クレちゃんって面白い名前だなって思った人いませんか?実はこれ、ロンドン時代に僕が彼女をこう呼んでいたんですよね。理由は、実は昔に喜界島が島をクレオパトラ島として売り出そうとしたことがあったらしいんです。なんでも、あの黒船のペリーさんがここに立ち寄った際に、”クレオパトラアイランド”とこの島の事を呼んだらしくて。確かにきれいな名前で、観光誘致にはいい感じ。ところがよく調べてみると、クレオパトラ島と呼ばれたのかこの喜界島ではなく、その近くにあった島だと判明、しかも、喜界島につけられたのはどうやら、”バンガローアイランド。”バンガローは平屋を意味するので、起伏に富まない平らな島という意味ですね。そんな事件を知って、クレオパトラの最初の2文字であるクレから、クレちゃんって呼んでるんです。ちなみに彼女は僕のことをあ阿蘇のカルデラからとってカル君と呼んでくれます。ま、2人以外には誰もこの名前では呼ばないんですけどね。

日本を旅して、堺と言う町

ブログを書いた後にもう一つの学校へと足を延ばして、説明を聞いてきました。こちらもそのひとつ前の学校との関連施設で、ここ数年はシリアなどの中東からの難民が多いから、手続きにも時間がかかるし、ウェエイティングリストからの空きが出次第との事。近年、移民の受け入れに積極的なドイツの現状の様です。なので、僕の登録は昨日の朝に訪れた学校ですることに。今日の朝もオフィスが始まる8時を少し過ぎたところで訪れて手続きを終えてきました。昨日、対応してくれた人が丁寧に教えてくれて無事に完了。後は4週間以内に行政からの返事が来て、うまくいけばテストを受けて自分に合ったコースに入れる段取りに。なので、それまではドイツ語の自主勉強を頑張ろうと思っています。

さて、話を日本での帰国に戻しますね。お待たせしました。

今回の旅、アムステルダムから関西国際空港までは10時間ほどのフライト。一人でいると何をするにも荷物の心配もあるし、喋る相手もいないから余計に長く感じてしまうんですが、今回はユリ君が隣にいるのでその時間の長さを感じることなく大阪に着いたと言った感じ。これは、ありがたい。ルフトハンザ航空だったのですが、食べ物もワインもおいしくて、映画もかなりの本数があり、ひたすら映画鑑賞をしてました。

関西空港に着いたのが朝の8時ごろ。という事はヨーロッパはちょうど真夜中。ここで眠ってしまっては時差ボケにやられるし、ホテルは午後の3時まではチェックインもできないので、少し眠い頭を奮い立たせて外に出歩くことに。

都会と人込みを得意としないユリ君。けど、少しは大都会の雰囲気も見てもいいかもと旅を始める前に行っていたので一路、大阪へ予定した僕。難波の近くでお好み焼きや、たこ焼きを食べて道頓堀のネオンをみて、難波パークスと言う商業施設と公園が融合したような建物でも回ればいいかな、って思っていたのですが。ネオンがきれいなのは日没後か、、、。これじゃ時間的に余ってしまう、、、。ほかに行くところはと調べていると僕たちの泊まる泉佐野市と難波の間にある都市を発見。それが堺市。

なぜ堺市?って後で聞かれたんですが、一番の理由は大仙陵古墳。この名前でピンときましたか?社会の教科書で載っていた日本で一番大きな古墳ですね。実は大阪の繁華街で何をするかって考えたときにお好み焼きなどの食べ物は簡単に思いついたんですが、ユリ君がしたいことって買い物でもないので、あんまり難波では楽しめないかもと思い、それなら日本のピラミッドともいうべき古墳を見たほうが面白いかと思って堺にしたんです。

ネットで調べてみると堺市が古墳群を含めて最近観光に力を入れているようで、いろいろな情報が手にできました。”古墳は見ても大きすぎて全景が見えないよな、、、。”と思っていたら、堺市の市庁舎の21階の展望スペースが無料で一般開放されていることを知り、まずはそこに。360度の展望台からは古墳は見えるし、関西空港や遠くは神戸のあたりも見えそうなくらいのパノラマ。

ユリ君がトイレに行っている間に展示品を見ていると、”素敵なカメラですね。”と声をかける人が。どうやら、ここでボランティアガイドをしているおじさんの様。カメラの事から話が弾み、堺市の歴史と発展、また窓から見える景色からわかる堺市の規模の移り変わりを教えてもらいました。

特に興味深かったのは堺が商業都市として栄えた背景と、その堺商人のバイタリティーの強さ。

もともとは貿易港でもなかった堺。これが戦争によって日本が東西と別れてしまった時があり、その時に中国との玄関口にあたる神戸の港は西側に。では、東野人たちはどうすればいいのかとなり、開かれたのが堺。ここから中国、そして奄美大島や種子島のほうへも自ら進んでいく堺の商人。堺を特に活気づけたのが、銃。みなさんも社会の授業で習いましたよね?ポルトガル人によって種子島にもたらされた火縄銃。さてこの銃、その形などをまねして日本の各地で作ることはできたんです、ただ問題は硝煙。これがない事には弾がうてない。残念ながら最初の時期は日本でそれを生産することができなかった。堺の商人はそこに目を付けて、海外で硝煙を買い付けては火縄銃とセットで販売をした。これなら頼んですぐに武器として使えますからね。なのでこんなこともあり堺は商業都市として栄えることになったのだとか。

このように、この市庁舎をはじめ仁徳陵古墳の前や、博物館にボンティアの観光ガイドの人が数名いるんです。この人たちが気さくに、”ガイドしましょうか?”って声をかけてくれるんです。しかも無料。中には資料のファイルも持っている人がいるので、古墳がどのようにできたのか、この古墳の歴史や秘密も教えてもらえますよ。後面白いのが、ボランティアの人の中には自論の考察を述べてくれる人もいるので面白いです。”一般的にはこういわれているんだけどね、僕はねそれは違うと思うんだよね。だって、この時代は、、、、、。”ま、あくまでも僕の考えなんだけどね。”と熱心に教えてくれてもう、たのしい。

最終的には、市庁舎でひとり、古墳の前でひとり、博物館でひとりの計3人のガイドさんのお世話になりました。このガイドさんたちのおかげで堺と言う街の面白さも知れたし、その歴史も感じられました。もし機会があったら、ぜひガイドを頼んでみるといいですよ。

あとね、堺市が素敵だなって思うのが入場料の安さ。

市庁舎や古墳は無料だし、古墳の出土品も模型や、火縄銃を展示している堺市博物館は常時展示物だけなら100円。ね、100円でガイドさんが詳しく30分ぐらいは説明してくれるんですよ。そしてその近くにある日本庭園。ここが素晴らしかったこと。

ユリ君に日本庭園を見せたいなと思っていたんです。

日本の中でどこが綺麗かなと調べてみると、島根県にある足立美術館の日本庭園が綺麗だという事を発見。確かに写真を見るとものすごく広くて、きれい。旅の後半は出雲神社に行くし、その道中で立ち寄れるかなと思っていたのですが、あとでスケジュールを組んだ時にどうしてもここに立ち寄るのが難しく断念。なので、その代わりとなる日本庭園は何かと考えていたんです。

足立美術館は入館料も2300円と結構な値段。けど、この堺市の大仙公園日本庭園は入園料は200円。

だけど、ちゃんと考えられて作られているのがわかる素敵な作りだったんです。

正面には大きな池とそこには橋が架けられ、気分は平安貴族。右手を見れば、池に流れ込む小川。その小川の流れは時に遅く、時に早く、まるで自然界にある川を凝縮したかの様。その周りには沢山の木々があり、ここが都会であるという事忘れさせてくれる穏やかさが。

10月の半ばとも会ってまだ、夏の花々は終わり菊の展覧会には早い季節だったので人影もまばらで、まるで自分たち2人だけの貸し切りの日本庭園。いったん水の流れの上流まで行き、今度は大きな池の反対側へ。ここには池に流れる滝や、堺市と昔は密接なかかわりがあったであろう中国的な建物があり、ここからの景色がまた、素敵な事。いつもは写真を撮らないユリ君もここでは数枚とっていました。

日本庭園って本当に美しいですよね。四季ぞれぞれに楽しめて、その時間の移ろいを楽しむ面白さがそこにはあるように思います。

あまりにも堺市の魅力に取りつかれて気が付くとホテルのチェックインの午後3時はとうに過ぎており、難波に行くこともなく堺の素敵な思い出だけを胸に、ホテルへと。

”なんて素敵な旅の始まりだろうね。”と二人で話しながら、いつの間にかに眠りについた僕達2人なのでした。

 

 

ドイツの片隅で、日本に思いをはせて

日本での滞在が一ヶ月だったためか、体がまだドイツ時間に慣れていない状態が続いています。時差ぼけって、病気ではないけれども何となく気分も頭もスッキリとしないから困ります。

朝の寝起きはよく、6時半ごろにはかなりの元気をもてあましている状態で、ユリ君が起きるのを今か今かと待っている状態で、これって朝早く起きた子供が親が起きてくるのを待っているのと一緒ですね。なので、朝は元気に始められるのですが夕方ごろになると電池が切れ気味になって、少しづつ夢に世界に。途中でユリ君に、”時差ぼけを治すには、ちゃんとした時間に寝ないとね。”と言われて頑張って起きてます。けど、限界は午後9時。

8時半ごろからユリ君に、”寝よう。寝よう、寝よう!!”とせがんで9時になると同時に歯磨きをしてベッドに直行。その数分後には眠りの世界をさまよっている感じかな。これがなくなるにはもう少し時間がかかりそうです。

さて、日本への帰国についてですが、今回は本当にいろいろな人々に出会い、違った食文化や風土に触れることが出来ました。自分は日本人だといいながらも、実は知っていることなんて自分の身の回りのことばっかりで、日本というものは自分が思っている以上に広くて、多岐にわたるんだという事。日本への興味を今まで以上に掻き立てられました。

2年半ぶりの日本だし、僕の海外での生活は僕の人生の三分の一以上になり、成人してからを考えると日本で過ごしたのは本当に数年間しかないんですよね。だから、日本を見る目がどこか外国人から見るのと似ているなって思いました。

今回の帰国で素敵だなって思ったもの。

武家屋敷的な瓦屋根の家。日本の台風などにあわせて二階の部分が一階に比べて天井が低めで、縦長ではなく横にどっしりと構えている風情の美しさ。

小さくも沢山の品が並ぶ料理。ヨーロッパだとメインで副菜くらいしかないけれど、日本の料理は本当に色々な食べ物が一度に出てきて美しいなって思います。旅館で食べた懐石風でも、熊野古道で食べた田舎料理でも、母の手料理でも色々なものが多すぎず、主張しすぎないである様は素敵ですよね。

日本の田舎。本当に美しさを備えているのって田舎町だなって。これは日本に限ったことではなくて、イギリスもドイツでも言えること。都市部は便利なのですが、結局はどこも似たり寄ったりで面白みに欠けるんですよね、数日滞在をすると。その点で田舎の町はその土地の雰囲気がよく出ているし、人の温かみも感じやすいように思います。

NHKの素晴らしさ。本当に、面白い番組ばっかりを放送していてテレビを見るときはNHKだけを見ていたように思います。洋服の黄ばみの理由に、メカニズム、そしてその落とし方を学んだかと思えば、イタリア語の3人称について学び、豊臣秀吉の奥さんのであったねねの功績を知ったりと物凄い情報量。もちろん民放も悪くはないのですが、セットが色鮮やかすぎて目に眩しすぎたり、テロップがあまりにもひっきりなしに出てくるので読みつかれたりするので僕にはNHKがちょうどあってるように思います。ニュースも、選挙人のセクハラや誰それの不倫などをやけに大きく取り上げないところもいいですよね。他人の物事に足を突っ込んで、首も突っ込んで、しまいには全身も突っ込んでいく今の報道もどうなんでしょうね。

サービスもいいですよね。道を聞いたらその場所まで案内してくれたり、細かな所まで教えてくれたり。これは特に中年以上の人たちにお世話になりました。この年代の人たちって物知りでもあるし、人生経験も豊富だから話が面白いのも印象的でした。

今回の一ヶ月の日本帰国で、日本という国の面白さを再発見し、その魅力にまたしても取りつかれてしまいました。最近のお気に入りの年代は昭和の全編における日本の文化の変化や、人の価値観の変わり方について興味を抱いている今日この頃です。

 

方を付けるという意味で

ただいま。昨日の昼過ぎに長い旅路の末にドイツのわが家へと帰ってきました。

やっぱり、日本とヨーロッパは遠いですね。アムステルダムのホテルに着いたのが日本の実家を出発してから25時間。その間に飛行機で見た映画の数は5本。眠らずにドイツのミュンヘンについて、さてアムステルダムまで最後のフライトと思っていたのですが、到着が遅れてゲートに着いた時には6分前には飛び立ってしまったとの事を伝えられ、その1時間半後のフライトでアムステルダムへ。

なぜドイツに住んでいるのにオランダの首都に?って思われそうなのですが、僕の住んでいる町はオランダとの国境に近いんですよね。なので、遠く離れた南ドイツのミュンヘンよりもこっちのほうが便利なのと、ユリ君曰く”ドイツの空港使用料は高い。”とのことでオランダの発着となったんです。

夜10時過ぎのアムステルダムの駅の周辺は人の通りも多街の中を悠々と流れる運河にはその活気が映し出されて、田舎の生活を日本滞在中にしていた僕には異世界のような雰囲気を感じて、25kgほどもあるスーツケースを引きずりながら宿へと足を速めた次第。

今回の宿泊先はアムステルダ中央駅から徒歩8分と言う利便性だけで選んだので、広くもなく、必要最低限のものがある簡素な部屋。ただ、運河沿いの通りに窓が面しておりそこから見えるオランダの街並みを思い起こさせる細長めの建物を対岸に見れるのは疲れた心と体をほぐしてくれました。

翌朝は11時の電車で4時間半の旅。その前日が25時間の旅程だったので、4時間半なんて何とも思わなくなるので、慣れって不思議ですよね。

無事に家に着くとリビングは穏やかで居心地の良い温度で満たされていました。ユリ君が気を利かせてヒーターをつけておいてくれたようです。部屋に入って、一息ついた瞬間に 家に戻ってきたんだな。っ思いが。まだ住み始めて数か月しかたたないというのに心は自分のあるべき場所を知っているのでしょうね。

さて、今回の日本への帰国は1ヶ月と言う長めのものでした。

最初の2週間は初めて日本を訪れるユリ君を色々なところに連れていくという事で、大阪の堺市、奄美群島の喜界島、和歌山の熊野古道、島根の出雲大社、そして阿蘇へと。ユリ君を熊本空港で送ってからは自分と家族のための2週間と決めて、どこに行くでもなく阿蘇での生活を過ごしてきました。

前回に日本に帰ったのは2年半前。

その時にも色々な事があって、なんとなく中途半端な状態で物事が終わっていたんですよね。今回の旅はその方を付けなくてはと言うのもあっての旅でした。

2週間と言う時間の中で自分が出来る事をすべてしようと思い、北に南に東に西にと動き回り、自分のできる範囲内で物事を少しは整頓できたのかなってドイツに帰ってきた今はそう思っています。

今回の旅でいろいろな人に出会い、その人たちの生きてきた人生の一端に触れて、人間とはなんと単純で複雑で、自分と言うものを理解しようともがきながらも、その中で他人とのつながりを求め、また時には拒み生きているんだろうと考えさせられました。人生って本当に面白いんだなって思いと、なんて難しいんだろうって思いが僕の心の中に今あって、不思議な高揚感で満たされています。

その事については僕の日本での旅の記録を含めて、少しづつ書いていこうと思っています。

まずはみなさんに、”ただいま。”のご挨拶をしたくて。

これからも、よろしくお願いします。

旅の前の準備。あなたはどのタイプですか?

土曜日は一日中、あめ、雨、アメの天気でしたが今朝のドイツ北西部は朝日が見えています。気分がいいですね、こんな日曜日の朝って。朝食にはスモークサーモンをトーストに乗せて、紅茶をおともに食べました。一日に始まりです。

さて、日本への準備がほぼ出来上がりました。今回は日本国内でいろいろなとこに行くのでその地域の下調べが多くあって、そこに時間を取り、いつもならネット環境がないまま日本では過ごすのですがユリ君が仕事の関係上もあってネットがないと困るという事なのでポケットWifiも頼みました。

皆さんは旅をするときはどんな準備をしますか?行き当たりばったりで何も計画しないタイプ?それとも綿密に計画を立てるタイプですか?

僕は、あることは必ず押さえておくべきものがあるんですよね。スケジュール的なものはそこまで密にはしないかも。

必ず押さえておくのは、宿泊先。これはみんなそうでしょうね。早めに予約をしておいたほうが安かったりしますし、繁忙期には泊まるところがないという事もありますからね。これは絶対かな。あとは良さそうなレストランを何件か調べておくこと。これは特に4-5人くらいのグループの時はそうします。この人数ってそれぞれの意見が出てきて何をしたいか、何にをいつ食べたいかでもめることが多かったりするし、情報がないもないままで、行き当たりばったりのレストランで食事がまずかったというのは悲しいですしね。旅行の楽しみって普段口にしないものを食べれるってとこにもあるなって僕は思っているので。それならば、美味しいもの食べたいですもんね。それと最後は交通機関。空港から街や宿への生き方はもちろん、どんな交通機関があって僕たちの考えているスケジュールをこなすにはどれが最適なのか。この3点かな。

そこで今回の日本への旅の準備はこんな感じ。

今回の旅程は関空について大阪で1泊。その次の日に奄美大島にとんで夕方のフェリーで喜界島に。そこで3泊した後関空に戻って、電車で和歌山の紀伊田辺へ移動。熊野古道を1泊2日をかけてハイキングしたら、紀伊田辺に戻ります。そしてそこから一気に出雲市へ。出雲では老舗の旅館に泊まるんです。楽しみ。その後は岡山まで戻り新幹線で博多へ。博多に一泊したのち熊本へとなります。

僕にとってもほとんどが初めて訪れる土地なので、興奮気味。

まずはホテルの予約をネットや電話でかなり前にして、電話で予約を入れたところにはメールで再度予約確認。だって現地で、”そのような予約はありません。”という時に電話だと何も証拠がないですからね。それと今回はポケットWifiをホテルの送るのでその了解を取るのと、熊野古道に行く時に泊まるホテルにハイキング中に荷物が置けるのかの確認も。日本はサービスがいいので、すべて問題なし。ありがたい。

次にグーグルでホテル周辺や訪れる街の地図を印刷。ユリ君が言うには、携帯で見ればいいじゃんって事なのですが、、、、。アナログ人間の僕としては紙で持っていたいし、余白にメモを書きたいので。そこにレストランの情報や見てみたい所に印をつけて完了。大阪ではお好み焼き屋さんを、紀伊田辺では鶏肉専門店のお店を、奄美では島料理のお店を選びました。

そして最後に交通手段。今回は僕もユリ君もJRパスというものを使うんですよね。観光で来る外国人、日本を離れて10年以上の日本人を対象に発売されている電車切符で、のぞみとみずほ以外の新幹線や全てのJR線は一定料金を払えば乗り放題なんです。僕たちは今回は7日間のものを買いました。7日間乗り放題でひとり29110円。お得です。

どうにか電車のスケジュールも素敵なものが見つかったので一安心。電車好きなユリ君に新幹線の快適さを味わってもらいたいのスケジュールと、新大阪に駅弁が山のように売っているところがあるらしいので本当は乗り換え20分しかないのを1時間にしてゆっくりと選べるように。これね、JRのお出かけネットっていうウェブサイトがかなり便利です。例えばこのように乗り換え時間をどのくらいにするか決められたり、ローカル線だけとか、新幹線ののぞみとみずほは外してほしいというリクエストに応えてくれてネットで一番いいルートを検索してくれるんです。便利な世の中になりましたね。

さて、あとは荷造りをしたらおしまいです。天気も台風の発生もないし、穏やかな秋の日のようなので一安心。ただ一つの心配店はアメリカと北朝鮮の関係性。トランプ大統領が最近、”嵐の前の静けさとはこの事だね。”と意味深な発言をしており、ある情報によれば月曜の9日に何らかの動きがあるのではとの事、、、、。飛行機が飛ばないような状態にならなければいいなっていうのが僕の願いです。